日本の周辺国が装備する兵器のデータベース


▼左から殲撃9I、殲撃9II、殲撃9III、殲撃9犬寮澤廾董


▼殲撃9言澤廾討了位命沺


▼殲撃9V設計案の三面図。


▼「殲撃9-I」案の三面図、模型。


▼最終案となった「殲撃9-供彑澤廾討両緻命沺完成予想図。



▼殲撃9双発エンジン型(「殲撃9-掘廖砲了位命泙班洞模型。この機体が「殲撃9-供廚任△襪箸寮發發△襦


▼殲撃9の主機である渦扇6ターボファンエンジン(WS-6/910型発動機)。

▼殲撃9の主兵装であるPL-4空対空ミサイル。


性能諸元(最終案:殲撃9-)
重量13,000kg
全長18m
全幅
全高
エンジン渦扇6ターボファンエンジン(WS-6/910型)ドライ7,270kg、A/B12,460kg ×1
最大速度M2.3
航続距離2,000km
作戦行動半径600km
上昇限度21,000m
最大上昇率220m/s
武装30mm機関砲×1
PL-4Aセミアクティブ・レーダー誘導空対空ミサイル(霹靂4A)×2
PL-4B赤外線誘導空対空ミサイル(霹靂4B)×2
乗員1名

中国は、1949年の建国以降ソ連の支援の下で、空軍の建設と航空機産業の育成を図ってきた。1950年代の中国空軍の戦闘機は、ソ連から供給されたMiG-15、MiG-17、もしくはそのライセンス生産版(殲撃5)であった。航空機産業の立ち遅れた当時の中国にとって、早急に空軍力の建設を図るためにはソ連の支援は不可欠な存在だった。

ソ連機のライセンス生産により徐々に技術力の蓄積を行っていた中国航空産業の方向性を変化させることになったのは、1958年に開始された大躍進政策であった。大躍進政策は、「10年で(当時世界第二位の経済大国であった)イギリスを追い越す」というスローガンのもと、中国社会の社会主義的改変と農工業部門の急速な成長を目指したが、経済的基盤の乏しい状況下で強行された非現実的な開発計画は中国経済に大きな混乱をもたらし、多数の犠牲者を出すことになった。航空機産業でも、自力更生と技術的大躍進が求められ、脆弱な技術基盤にもかかわらず世界第一級の戦闘機を開発することが強行された。東風-107、東風-113などマッハ2級戦闘機を開発する複数の計画が同時進行されたが、これはいたずらに開発人員、予算を分散させるだけであった。また、超音速機開発の基盤となる基礎研究や設計理論、大型風洞などの研究施設の不在という現実は、スローガンや開発陣の努力でどうにかなる物ではなかった。結果として大躍進時期の戦闘機開発は、技術的基盤の乏しい状況では戦闘機開発は不可能であるとの教訓を残すだけの結果に終わった。

大躍進政策の終結後、中国航空機産業はソ連からの技術供与とライセンス生産により技術的蓄積を積む大躍進以前の政策に立ち返ることになった。MiG-19を国産化した殲撃6(J-6)が1962年から実戦配備が開始され、続いてMiG-21のライセンス生産に向けた作業が開始された。しかし、1960年代に入ると社会主義路線をめぐる中国とソ連の対立が表面化し、最終的にはソ連は中国に対する全ての支援を打ち切る結果となり、航空機産業での協力関係も消滅した。

1960年代の中国航空機産業は、航空機生産の基盤となる産業面、技術面での立ち遅れた中で、頼みのソ連からの支援も断たれた国際的孤立という環境下において自立更生せざるを得ない状況に追い込まれる事となった。中国空軍では生産体制の確立していた殲撃6を大量生産すると共に、当座の目標をMiG-21の国産化作業に集中することを決定した。MiG-21の国産化に当たった遼寧省瀋陽の第112航空廠(現在の瀋陽飛機工業集団有限公司)所属の中国航空研究院601所(現、瀋陽飛機設計研究所)。は、1964年10月に開催された「MiG-21與IL-28飛機改進改型会議」の議場で航空研究院の指示に基づいて、開発作業の7割をMiG-21の技術を元にして新型戦闘機を開発する作業に投入し、完全新規開発よりも早く新型戦闘機を実用化するという案を提示した。この会議において、中国航空研究院601所の提案した開発案は了承されて次世代戦闘機の研究開発が開始された。

【開発第1期:1964.12〜1968.6】
次世代戦闘機開発において、もっとも大きな課題となったのが戦闘機に搭載するエンジンであった。エンジンの諸元が決定していないと戦闘機の要求性能を決定する事自体が困難であり、エンジンのサイズや外形が不明であれば、機体の設計作業も停止してしまう。そして、航空機用のエンジンは高い技術的集積物であり開発自体に時間を要する上、地上と空中での運用試験によりその実証性を証明させなければならず、実用化には長時間を要する。そのため、機体の設計に先立って使用するエンジンをどうするか決定する必要があった。エンジンと飛行機の設計を同時に行うとなると、開発リスクはさらに上昇することが予想された。

中国航空研究院601所では新戦闘機の初飛行の目標を1967年に定めたが、これにより開発陣に残された期間は4年間となった。「MiG-21與IL-28飛機改進改型会議」では、この期間内に確実に戦闘機の開発を行うため、MiG-21の技術を流用して双発エンジン化することで早期に実用化可能な開発案が本命の開発案として了承された。

それと同時に、より野心的なプランである新規開発の910型ターボファンエンジン搭載の単発戦闘機案も研究継続が承認された。双発戦闘機案には殲撃8(J-8)、単発戦闘機案には「殲撃9(J-9)」の名称が付与され、殲撃8の初飛行は1967年を目標とすることが決定された。

910型ターボファンエンジン(後にWS-6/渦扇6と命名)は、瀋陽発動機設計研究局により1964年10月から開発が開始された中国初の国産大推力ジェットエンジンで、予定性能としてはドライ7,270kg、アフターバーナー作動時で12,460kgと、諸外国のエンジンと比較しても高い性能の達成を目指した野心的なエンジンであった。ヴェトナム戦争で撃墜されたF-4ファントム戦闘機の残骸から回収したJ79ターボジェットエンジンや、イギリスが開発したロールスロイス 「スペイ」ターボファンエンジンの公開資料などが集められて開発の参考とされた。

殲撃8の開発主任は黄志千技師、副主任は王南寿技師、殲撃9の開発主任は葉正大技師、副主任は謝光技師が任命された。殲撃8の早期完成が優先されたため、瀋陽の開発陣の主力は殲撃8の開発に投入され、余力を以って殲撃9の研究開発を行う事とされた。殲撃9ではターボファンエンジン以外にも、全天候性能を可能とする新型レーダーの装備や、セミアクティブ・レーダー誘導ミサイルの運用能力も取り入れられることとなった。その後、1965年5月に黄志千技師が欧州視察中に旅客機事故により死亡した事を受けて、王南寿技師が殲撃8の主任技師になり、同時に殲撃9の技術開発にも協力する研究開発体制が構築された。

殲撃9の性能については当初は、アメリカのF-4B戦闘機と同等の性能が求められた。要求スペックとしては、最大速度マッハ2.2、最大上昇高度20,000m、航続距離1,600km、重量10t等の数値が示された。ただし、これはとりあえずの目安であり、正式な要求決定は1965年に提示された。中国の重要工業計画を取り決める機関である中華人民共和国第三機械工業部(通称三機部)は、1965年4月12日、中国航空研究院601所に対して殲撃9の設計に関する2つの案を提示していた。第一案では制空能力を重視した案で、最高速度マッハ2.3、上昇限度20,000m、作戦行動半径450kmという性能であった。第2案は迎撃能力を重視した案で、最高速度マッハ2.5、上昇限度22,000m、作戦行動半径350kmと上昇力と速度の向上に眼目をおいた案であった。

殲撃9の設計陣は、1965年から本格的な検討を開始し、まず4種類の主翼形状案を纏めた。内容は以下の通りである。
殲撃9I案後退角50度の後退翼。
殲撃9II案後退角57度のデルタ翼。
殲撃9III案後退角55度の後退翼。
殲撃9鍵ダブルデルタ翼。

それぞれの形状の優劣を判断するため、模型機を製作し風洞実験が行われた。その結果、後退翼の場合、マッハ2.0に達するには後退角を60度にする必要があるが、この後退角では低速飛行時の安定性に難があり主翼の強度の面についても不利なことが判明。デルタ翼の場合、後退翼に比べて構造を強く作ることが容易で飛行時の安定性についても問題ないことが判明したため、開発陣は殲撃9鍵討離瀬屮襯妊襯人磴鰥啖9の主翼形状として選択し、尾翼付きデルタ翼(後退角55度)の設計案を纏めることになった。殲撃8では、早期に実用化することが求められたため、インテーク形状はMiG-21を踏襲したが、新設計の殲撃9では機種に大型レーダーを搭載することもあってインテークは機体側面のサイドインテークとすることとされた。

1966年8月、中国共産党中央軍事委員会は殲撃9の目標性能「殲9飛機戦技術性能指標」を提示。殲撃9は、最高速度はマッハ2.4、上昇限度は21,000m、航続距離は3,000km、作戦行動半径は600km、飛行時間3時間、最大上昇率200m/sという性能を実現する事が求められた。この要求から読み取れる事は、中央軍事委員会は、殲撃9に高高度高速迎撃機としての能力と長い航続距離を有する制空戦闘機の2つの性格を併せ持たせる事を求めたという事である。これは、同時に設計されていた殲撃8が典型的な迎撃戦闘機とされたのとは対照的であった。中央軍事委員会の決定を受けて、9月4日には航空機開発を担当する行政機関である第三機械工業部が「関于殲9飛機研任務的通知」を布告、第3次五カ年計画の重点目標の1つとして殲撃8に続く新型戦闘機「殲撃9」の開発を推進することを宣言した。この布告と同時に、910型エンジンの設計作業を1966年中に終えて翌67年初めから試作を行う事、殲撃9に搭載する205型レーダーと霹靂4(PL-4)空対空ミサイルの研究開発の推進も指示された

1966年8月から1967年初めにかけて風洞試験が行われた結果、殲撃9鍵討竜‘粟に問題がある可能性が浮上してきた。設計陣では、機動性を向上させるために主翼形状を無尾翼デルタとした殲撃9弘討鮨靴燭膨鷭个靴拭殲撃9弘討任聾綢牾60度、翼面積60屬離妊襯人磴採用された。ただし、この案でも問題とされたフラップの利きの悪さや強度の問題、離陸直後の操縦性劣化等については解決し切れなかった。

1668年4月3日には、軍と関係機関の会議の結果として、1969年10月1日の国慶節(建国記念日)の軍事パレードで展示飛行を実施できるようにする指示が出された。また同月、昂燭寮澤廾討慮Φ罎鰺ダ茲気擦襪茲Δ砲箸了惻┐設計陣に伝えられた。しかし、6月になって、昂唇討竜蚕囘な問題点がなお解消できないこと、殲撃8の開発が優先された事、なにより文化大革命による混乱が深刻化した事を受けて、殲撃9の開発は一旦停止される事になった。

これが殲撃9の最初の開発中断である。殲撃9の開発期間は14年にわたったが、その内三回の開発中断が存在した。さらに、その過程で5回の開発目標の大幅変更が命じられ、技術陣はその度に大きなエネルギーを割かれる事になった。


【開発第2期:1969.10〜1974.4】
文化大革命による混乱状況の中でも、殲撃9に関する研究は各機関で細々と継続されていた。1968年、殲撃9に搭載予定の910型ターボファンエンジンの試作型の試験が開始。1969年にはさらに20基の試験用エンジンの製造と実用化に向けた作業を継続する事が決定された。また、1969年2月3日、中国航空研究院601所は、殲撃9の開発部門に人員を再配置して、作業を部分的に再開する事を決めた。

1969年10月になって、航空工業領導小組は再び殲撃9の開発案を調査検討した結果、サイドインテーク+尾翼付きデルタ翼型の「殲撃9厳拭廾討鮹翩活させる事を決定し、殲撃9の開発再開が正式に指示された。しかし、航空工業領導小組は、上記の決定と同時に中国航空研究院601所から300人を抽出し、彼らを四川省の成都に移転させた上で新たな航空機設計局を開設し、そこが殲撃9の開発を担当するという決定を下した。この決定は、当時全面核戦争を想定した中国政府が長期戦を視野に入れて、敵の攻撃の及ばない内陸部に新たな軍事工業拠点を建設するという「三線建設」計画に基づくものであった。成都行きの開発陣のリーダーには王南寿技師が指名された。王南寿技師は、移転計画はいたずらに開発を混乱させるだけだと反対したが受け入れられることはなかった。彼は、成都移転が決定した後、殲撃9の開発を順調に進展させるには航空機設計チームだけではなく、エンジン設計チームも一緒に成都に行く必要があることを主張し、瀋陽発動機設計研究局も成都に分局を設けることとなった。この移転に伴い殲撃9の開発は再開直後に空白を余儀なくされた。

殲撃9の要求性能としては、最高速度マッハ2.5、上昇限度25,000m「双2.5(2つの2.5)」を達成する事が求められていた。しかし、空軍は1969年7月5日の殲撃8の初飛行成功を受けて、殲撃9の要求性能の見直しを行う事となった。空軍は新規開発の殲撃9には、殲撃8よりも高い性能が必要となると見なしていた。当時、アメリカのU-2偵察機による中国に対する高高度偵察が実施されていたことや戦略爆撃機による都市爆撃を喫緊の脅威であると見なした空軍は、殲撃9の速度、上昇可能高度の向上と航続距離の延伸を求めた。空軍が提示した要求性能は、殲撃9は大型の高速航空迎撃戦闘機として「双三」(最高速度マッハ3、上昇限度30,000m)、もしくは「双二八」(最高速度マッハ2.8、上昇限度28,000m)の性能を確保せよというものであった。この性能に加えて、作戦行動半径900〜1,000km、機体空虚重量13t、最大搭載力8tという要求が求められた。

瀋陽を出発した殲撃9の開発陣は1970年5月7日に成都に到着し、成都の中国第132航空廠(1958年設立。後の成都飛機工業集団有限公司)において中国航空研究院611所(所長は王南寿技師/殲撃9開発主任と兼任)を立ち上げると共に、航空機生産体制の構築など多岐にわたる作業を開始した。開発陣では、軍の新たな要求性能である「双三」、「双二八」、航続距離延伸などの新たな要求についての検討を行ったが、「殲撃9厳拭廾討寮澤廚910型エンジンの推力では要求項目の全てを達成するは不可能であると結論せざるを得なかった。開発陣は軍に対して要求性能の再検討を求め、航続距離の延伸は要求から取り下げられた。各機関との調整の結果、「双二八」(最高速度マッハ2.8、上昇限度28,000m)を開発目標とする事が決定された。

開発陣が重点を置いたのは、高速飛行を可能とする機体形状の選択、大推力エンジンの実用化による高推力比の実現であった。エンジンの開発は瀋陽発動機設計研究局によって行われ、成都の設計局は機体の設計作業を担当した。

「殲撃9厳拭廾討任詫弋疚槁犬鮹成できないと判断した開発陣では、性能向上を目指して設計の再検討作業を開始した。無尾翼デルタや通常の後退翼等各種形状の主翼が検討された結果、カナード付き無尾翼デルタ翼の設計案(「殲撃9此廾討般震勝砲虜陵僂決定された。サイドインテーク+無尾翼デルタ型(「:殲撃9双二六(マッハ2.6、上昇限度26,000m)」案)とカナードデルタ+機体下部のインテーク形式(「殲撃9双二五(マッハ2.5、上昇限度25,000m)」案)の2種類の設計案に縛られた。サイドインテークの形状は、ソ連のSu-15フラゴンを参照した二次元可変インテークが採用された。カナードデルタ案は、スウェーデンのサーブ-37ビゲンの形状と類似した機体形状となった。カナードは当初は可動式であったが、装置が複雑になるため最終的には固定式に変更された。上記の両方の設計案に基づいた風洞試験用模型が製作され、1970年11月から1971年8月にかけて風洞試験が繰り返された。また、1970年8月には、瀋陽発動機設計研究局から開発中の910型エンジンに関する詳しい性能諸元が送られてきた。しかし、その性能では最高速度はマッハ2.5、上昇限度25,000mが限界であることが判明した。設計陣では、エンジン出力の早急な改善は困難と判断し、性能向上を目的として設計変更を実施する事となった。これらの設計作業は、13卓の机に座った23人の設計員によって、全て計算尺と手動式計算機によって行われた。

設計案の再検討とエンジン開発陣との調整の結果、カナードデルタ+機体下部のインテーク形式の設計案は最高速度マッハ2.5から2.6を発揮する目算が立った。しかし、上昇限度は24,000mに留まった。1970年11月に西安で開催された航空研究院年次工作会議において、殲撃9の開発状況の報告と検討が行われた。再検討の結果、「双二八」の達成にはエンジンや高熱に耐える機体素材など技術的制約が大きすぎることが了承され、殲撃9の要求性能は「双二八」から「双二六」(最高速度マッハ2.6、上昇限度26,000m)、「双二五」(最高速度マッハ2.5、上昇限度25,000m)に変更された。これは3度目の開発目標の変更であった。

中国航空研究院611所では、サイドインテーク案と機体下部にインテークを配置する案の得失の検討作業を続けていた。機体の設計と同時に、火器管制装置、エンジンノズル、燃料タンク、機関砲の消煙装置、ピトー管、射出座席、ミサイル用パイロンなど各コンポーネントの開発も行われた。さらに、エンジン燃焼実験施設の建設といった全天候型超音速機開発に必要な施設も建設された。ここで得られた技術的蓄積や研究実験施設は、中国航空研究院611所の後身である成都飛機工業集団有限公司がJ-7戦闘機の改良型やJ-10戦闘機を開発する際の貴重な技術資源となった。上記のように機体の設計は進展が見られたものの、瀋陽発動機設計研究局で行われていた910型エンジンの開発は、初の大推力ターボファンエンジンの開発ということもあって難航が続いていた。エンジンの早期の実用化が困難である事が明らかになったため、1972年4月には殲撃9の開発は課題研究扱いに変更され、開発は再び中断させられた。

同時期に、イギリスから輸入が計画されていたロールスロイス スペイMK202ターボファンエンジンを使用することも考えられたが、要求性能を達成するには推力不足ということでこちらも検討段階に留まった。


【開発第3期:1974.11〜1978】
1974年の夏になって、910型エンジンの開発の目処が立ったとの報告を受けて、殲撃9の開発再開が検討されることになった。当初は、910型エンジンを殲撃8に搭載して単発戦闘機とする開発計画が検討されたが、最終的には、より高い性能が達成し得る殲撃9の方が有望であるとの結論になった。設計局の試算でも、910型エンジンの予定性能であれば、殲撃9は最高速度マッハ2.5以上、上昇限度24,000mの性能を達成できることが明らかになった。

1974年11月に南京空軍機関院で開催された7499会議(74は1974年、99は殲撃”9”と”9”10発動機の9に由来)において、殲撃9の開発が再開されると共に第4回目の開発要求変更が行われた。7499会議で提示された性能要求は、最高速度マッハ2.4〜2.5、上昇限度23,000〜24,000mとされ、910発動機の性能で実現しうる範囲の要求となった。さらに1975年には殲撃9に対する性能要求として、最高速度マッハ2.5、上昇限度23,000m、最大上昇率220m/s、航続距離2,000km、作戦行動半径600kmという数値が纏められ、小平の裁可を経て正式の要求項目とされた。試作機5機を製造し、1980年に初飛行実施、1983年に実用化というタイムスケジュールも決められた。中国政府は、1983年までの開発経費として総額4億元の支出に同意した。

開発再開後の中国航空研究院611所が解決を迫られた課題は、マッハ2.4の最高速度での飛行時に大気との摩擦で高熱が発生する機体外版の素材研究であった。中国の戦闘機で最も高速だった殲撃8も最高速度はマッハ2.2であり、高速飛行時に熱の影響が機体に与える影響に関するデータについては不明な点が多かった。開発陣では、この問題に関してもほぼ満足の行く結果を出すことに成功し、殲撃9の初飛行を1978年に予定する所にまで漕ぎ着けた。

第3期の開発経過については不明な点が多い。

1つの説としては、第2期で計画された「殲撃9此廾討鬟戞璽垢砲靴董▲ナードデルタの「殲撃9-I」案が立案され、その発展型として「殲撃9-供廾討作られ、これが最終案となったとの見解がある[1]。一方、カナードデルタの「殲撃9-I」の発展型は「殲撃9-掘廚任△蝓△海譴箸亙未MiG-25似の二次元インテークやカナードデルタを採用した双発エンジンの拡大改良型も検討されており、これが「殲撃9-供廾討任△襪箸寮發發△[2]。このあたりの詳しい経緯については不明な点が多く、事実を確定するのは難しい。本稿では暫定的な措置として[1]の、「殲撃9-I」案→「殲撃9-供廾討箸いξれを採用する。殲撃9-祁燭砲弔い討肋霾鵑少ないため、詳細については割愛する。

「殲撃9-I」案の主翼は後退角60度のデルタ翼で、後縁にフラップが設けられていたが前縁には動翼は設置されていなかった。カナード翼は後退角55度のデルタ翼で3度下部に傾斜している。「殲撃9-I」のカナードは固定装備されており、機体制御には使用されない。機体上部にはMiG-23に類似したドーサルスパインが設置され、後部胴体下面中央にもMiG-23に類似した折りたたみ式の大型ベントラル・フィンが取り付けられた。インテーク形状はSu-15に習った二次元可変インテークとされた。

改良型の「殲撃9-供廾討任蓮⊆舁禀佞浦部分が前方に拡大されたダブルデルタ翼が採用された。これは空力学的改良であると思われるが、詳細は不明。その外の部分は「殲撃9-I」案に準じている。「殲撃9-供廾討侶弉茱好撻奪は以下の通り。最高速度マッハ2.3、航続距離2,000km、作戦行動半径600km、上昇限度21,000m、最大上昇率220m/s、通常離陸重量13t。

殲撃9は機首のレドームに205型火器管制レーダーを搭載している。これは、探知距離60〜70km、最大照準距離45〜52kmの性能を持ち、PL-4Aセミアクティブ・レーダー誘導空対空ミサイル(霹靂4)の誘導を行う能力を有していた。

殲撃9の主兵装であるPL-4はPL-3に続く中国第2世代の空対空ミサイルである。開発は1966年3月から航空工業部612研究所(後の洛陽光電子技術開発センター)によって開始された。このミサイルの原型となったのは、ヴェトナム戦争中に中国領空に進入、撃墜された米海軍のF-4Bに搭載されていたAAM-N-6スパローA(後にAIM-7Cに改称)であった。これをベースにして開発されたのがPL-4である。PL-4には誘導方式の違いで、PL-4A(セミ・アクティブレーダー誘導方式)とPL-4B(赤外線誘導方式)の2種類が存在する。スペックは、最大射程18km(A型)、8,000m(B型)、最小射程1,500m、最大速度マッハ2.2、弾頭重量40g、全長3.235m(A型)、3.128m(B型)、重量150kg(A型)、148kg(B型)、直径190mm。ミサイルの形状はスパローに準じている。PL-4AによるBVR(Beyond Visual Range)戦闘能力の付与は、当時の中国にとって最大の脅威であったソ連空軍のMiG-23戦闘機やTu−22Mバックファイア爆撃機に対抗するために必要とされた能力であった。しかし、205型レーダーとPL-4空対空ミサイル・システムの開発は当時の中国にとっては荷の重い課題であり、殲撃9の開発を難航させた要因の1つとなったとされている。

殲撃9の固定武装には新開発の30mm6銃身ガトリング砲を採用することが計画されていた。しかし、ガトリング砲の信頼性や安全性が確保できなかったため通常の30mm単装機関砲に改められた。

搭載エンジンである910型エンジン/WS-6は地上における試験では最大推力12,644kgを発揮した。さらに出力を強化した改良型のWS-6Gの開発も開始されていた。しかし、瀋陽発動機設計研究局での910型エンジンの開発は再び困難に遭遇し、実用化には尚時間を要する状況になっていた。

この様な状況の中で、1978年6月、殲撃9の開発主任である王南寿技師はルーマニアから入手したMiG-21MFの技術をベースにしてJ-7戦闘機の全天候型の開発研究(この機体は当初殲7大改/殲7羅馬(ルーマニア)と呼ばれ、後に殲撃7掘J-7C/J-7掘砲箸靴銅騨儔)の主任技師となることを命じられた。殲撃9の開発陣も殲7大改の研究に転用されることになり、この年の終わりには殲撃9の開発は停止されることになった。この時期には文革期に乱立した各種プロジェクトの再検討が行われ、早期に実現の見通しが立たない計画は整理縮小の対象となった。殲撃9もその例外ではなく、1980年には正式に開発計画の終結が決定された。ここまでに投下された開発経費は総額で2122万元に上っていた。

殲撃9の開発は、14(1964〜78)年の歳月と多くの資源/人的リソースが投入されたにも拘らず、産業面や技術面での未成熟、無定見な開発方針、そして文化大革命の混乱によって成功することは無かった。これは、1960〜70年代に開発されたJ-12戦闘機(殲撃12)J-13戦闘機(殲撃13)Q-6攻撃機(強撃6/A-6)等の機体に共通した結末であった。

しかし、大躍進期の戦闘機開発とは異なり、殲撃9の開発は、その後の中国航空機産業に様々な財産を残すことになった。殲撃9開発主任の王南寿技師は、殲撃9の開発は超音速戦闘機の開発経験を積んだスタッフの育成を実現し、超音速戦闘機開発に必要な各種研究施設や技術的ノウハウを入手する貴重な機会となったと回想している[3]。殲撃9の開発過程で建設された各種研究施設は、中国でトップクラスの水準を有する航空機試験場となっている。殲撃9の開発では、全天候戦闘機に必要なアビオニクス、機体素材、中距離空対空ミサイル、複合材料等の多くの技術が開発された。その中でも、カナードデルタの研究における数万回に及ぶ風洞実験によって得られた実験データは、腹部インテークの研究データと共に後に成都飛機工業集団有限公司がJ-10戦闘機(殲撃10/F-10)を開発する際に大きな遺産となったとしている。

【殲撃9設計案】
殲撃9I案1965年に立案された後退角50度の後退翼案。
殲撃9II案1965年に立案された後退角57度のデルタ翼案。
殲撃9III案1965年に立案された後退角55度の後退翼案。
殲撃9鍵1965年に立案されたダブルデルタ翼案。
殲撃9弘1967年に立案された無尾翼デルタ翼機。
殲撃9紺カナード付き無尾翼デルタ翼の設計案。
殲撃9此崛估麩察廾サイドインテーク+無尾翼デルタ翼。性能はマッハ2.6、上昇限度26,000mを目指す。
殲撃9此崛估鷂沺廾機体下部のインテーク形式+カナードデルタ翼。性能はマッハ2.5、上昇限度25,000mを目指す。
殲撃9-I案殲撃9此崛估鷂沺廾討糧展型。カナードデルタの単発機。
殲撃9-彊殲撃9-I案の発展型。主翼をダブルデルタ翼に変更。計画名称は殲撃9-薫討任△襪箸寮發發△襦
殲撃9-薫殲撃9此崛估鷂沺廾討粒搬臠展型。二次元インテーク+カナードデルタ+双発エンジンを採用。計画名称は殲撃9-彊討任△襪箸寮發發△襦

【註】
[1]海権論者的BLOG「詳述殲-10的前進—殲-9」(2008年2月26日)
[2]新浪網「中国第三代殲9及殲11殲撃12殲撃13戦機項目掲秘」(2008月8月8日)
ただし、この文では、[1]と同じ見解も掲載されており、文意が統一されていない。第3期の開発経緯については、なお検討が必要。
[3]航空档案 2006年11月号「沈重的翅膀−殲9天折内情回顧」(王南寿/航空档案雑誌社)

【参考資料】
航空档案 2006年11月号「沈重的翅膀−殲9天折内情回顧」(王南寿/航空档案雑誌社)
航空档案 2006年11月号「回憶與思考−王南寿総設計師訪談録」(王南寿/航空档案雑誌社)
航空档案 2006年11月号「被遺忘的総師−記殲9戦闘機総設計師王南寿」(劉鴻志/航空档案雑誌社)
兵工科技 2004年10月号「中国三代戦機的早期探索−殲-9戦闘機及配覆套装備的発展與評説」(江海客/兵工科技雑誌社)
戦闘機年鑑2007-2008 2007年(青木謙知/イカロス出版)

海権論者的BLOG「詳述殲-10的前進—殲-9」(2008年2月26日)
新浪網「掲秘殲9:殲10梟龍是其発展型(1)」(2008月8月7日)
新浪網「中国第三代殲9及殲11殲撃12殲撃13戦機項目掲秘」(2008月8月8日)
中華網 「中国殲9型殲撃機[組図]」

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