『南京地区における戦争被害』(スマイス報告)は国民党による宣伝文書である。
さらにティンパーリーの著作と同様に、第三者の欧米人による中立的立場からの日本軍告発の書物であると考えられていたLewis Smythe, War damage in the Nanking area, December, 1937 to March, 1938. Urban and rural surveys, Shanghai, Mercury Press, 1938も、ティンパーリーを経由した国民党国際宣伝処の要請と資金提供のもとで書かれたことが明らかになった。
(北村稔『「南京事件」の探求』p26-27より)
この陰謀論の根拠となっているのは国際宣伝処の処長・曾虚白の「自伝」の一節である。
ティンパリーについては別項を立てているので、こちらではスマイスの話題に限定する。自伝には確かにスマイスに金を払って本を書かせたとあるが、その記述の信憑性には大きな疑問がある。
まず『南京地区における戦争被害』が作成された経緯が他の資料と合致しない。
南京戦から数ヶ月が経ち、南京国際救済委員会(安全区委員会が改名)は、被害を受けた難民らの救済のため、その被害状況を把握する必要に迫られた。そこで委員会はベイツに報告書の作成を依頼し、ベイツがスマイスに協力して戦争被害の調査および報告書の作成にあたったのである。
つまり被害調査の主体はあくまで南京国際救済委員会であって、スマイス個人ではない。これは南京国際救済委員会の報告書においても、東京裁判におけるベイツの宣誓口供書においても一貫している。
国民党がティンパリーを通じてスマイスに宣伝文書を書かせたという話は、『南京地区における戦争被害』がスマイスによる個人的な著作だという思い込みから生じている。スマイスはあくまで調査と報告書作成の責任者に過ぎない。もし宣伝文書という話が事実であるのなら、働きかけた相手はスマイスではなく救済委員会だったはずである。
国際委員会の書記であったスマイスは文書作成の実質的責任者として働いたが、彼の扱った文書からは書簡も含めてティンパリーとの接点を示すものは一切見出されていない。国民党から極秘の依頼を受けたスマイスが一連の「ストーリー」を創作し、南京国際救済委員会に話を合わせてもらったとすれば辻褄は合うが、何も根拠が伴わない以上、それは完全な妄想である。
曾虚白の「記憶違い」で、実際はスマイス個人ではなく南京国際救済委員会に宣伝文書作成を依頼していた、という可能性もありえない。
なぜなら当時の国民党の内部資料である「中央宣伝部国際宣伝処二十七年度工作報告」(中国第二歴史トウ案館所蔵)には、「われわれはティンパリー本人および彼を通じてスマイスの書いた二冊の日本軍の南京大虐殺目撃実録を買い取り、印刷出版した」と記されている。ティンパリーとスマイスの関係などに多少の疑問はあるが、「書かれた本を買い取った」というのが当時の国民党の認識なのである。国民党が本を書かせたとしている資料は曾虚白の自伝以外にない。
このように唯一の根拠である『曾虚白自伝』の記述にまるで信憑性がない以上、スマイス報告が国民党の宣伝文書だという説が成り立つ余地は皆無である。
『曾虚白自伝』
かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。
(北村稔『「南京事件」の探求』p43より)
ティンパリーについては別項を立てているので、こちらではスマイスの話題に限定する。自伝には確かにスマイスに金を払って本を書かせたとあるが、その記述の信憑性には大きな疑問がある。
まず『南京地区における戦争被害』が作成された経緯が他の資料と合致しない。
南京戦から数ヶ月が経ち、南京国際救済委員会(安全区委員会が改名)は、被害を受けた難民らの救済のため、その被害状況を把握する必要に迫られた。そこで委員会はベイツに報告書の作成を依頼し、ベイツがスマイスに協力して戦争被害の調査および報告書の作成にあたったのである。
つまり被害調査の主体はあくまで南京国際救済委員会であって、スマイス個人ではない。これは南京国際救済委員会の報告書においても、東京裁判におけるベイツの宣誓口供書においても一貫している。
ベイツの宣誓口供書
1938年の春から1941年5月に私が南京を立去るまでの間に、南京国際救済委員会は幾度か私に、市民実生活の状況及生活問題に就て信用の置ける報告を書いて貰らへないかと依頼しました。最初私は1937年12月から1938年3月に至る南京市民の損害の調査を完成するために、南京大学の社会学の教授である『リュイス・エス・シー・スミス』博士の援助を致しました。即ち詳しく言へば、南京及其付近の食料・就業・住居の状況に就てでございました。
(『南京大残虐事件資料集 第1巻』p57より。片仮名は平仮名に、漢数字はアラビア数字に変換)
国民党がティンパリーを通じてスマイスに宣伝文書を書かせたという話は、『南京地区における戦争被害』がスマイスによる個人的な著作だという思い込みから生じている。スマイスはあくまで調査と報告書作成の責任者に過ぎない。もし宣伝文書という話が事実であるのなら、働きかけた相手はスマイスではなく救済委員会だったはずである。
国際委員会の書記であったスマイスは文書作成の実質的責任者として働いたが、彼の扱った文書からは書簡も含めてティンパリーとの接点を示すものは一切見出されていない。国民党から極秘の依頼を受けたスマイスが一連の「ストーリー」を創作し、南京国際救済委員会に話を合わせてもらったとすれば辻褄は合うが、何も根拠が伴わない以上、それは完全な妄想である。
曾虚白の「記憶違い」で、実際はスマイス個人ではなく南京国際救済委員会に宣伝文書作成を依頼していた、という可能性もありえない。
なぜなら当時の国民党の内部資料である「中央宣伝部国際宣伝処二十七年度工作報告」(中国第二歴史トウ案館所蔵)には、「われわれはティンパリー本人および彼を通じてスマイスの書いた二冊の日本軍の南京大虐殺目撃実録を買い取り、印刷出版した」と記されている。ティンパリーとスマイスの関係などに多少の疑問はあるが、「書かれた本を買い取った」というのが当時の国民党の認識なのである。国民党が本を書かせたとしている資料は曾虚白の自伝以外にない。
このように唯一の根拠である『曾虚白自伝』の記述にまるで信憑性がない以上、スマイス報告が国民党の宣伝文書だという説が成り立つ余地は皆無である。