否定派の主張

ベイツは様々な証言で「南京大虐殺」を作り上げた中心的人物の一人であるが、イェール大学所蔵の資料によって国民党の顧問であったことが判明した。ベイツは国民党の手下として虚構の証言を繰り返していたのである。

その傍証として、ベイツはティンパリーに虐殺報告を送った1938年と、東京裁判で大虐殺を証言した1946年に、中国政府から勲章を受け取っている。

反論

ベイツが中華民国の顧問(よく間違えられるが「国民党の顧問」ではない)であったという根拠は、東中野修道が発見したという「新聞記事の切り抜き」であるが、これは新聞名も日付も不明という非常に頼りないものである。
ベイツに関わる多数の文献はベイツ・アーカイブスとしてイェール大学に保存されているが、それらの文献中にも彼が中華民国の顧問であったことを示す資料はない。今のところ「ベイツ=中華民国の顧問説」は裏づけがまったくない。

あるいは、まだ知られていない文書資料で「顧問」であった事実が判明するときが来るかもしれないが、仮にそうだったとしたら、明治期の日本におけるクラーク博士やモース博士のように教育・学術の顧問を務めていたと見るのが自然だろう。ベイツは歴史学の教授なのである。

東中野は中央宣伝部の文書にベイツの名前を見つけたわけでもない、虚偽報告の指令書を発見したわけでもない。「顧問」いうだけで”中央宣伝部と関係がある、国民党の手先だ、虚偽の報告をした”と断定するのは無茶苦茶である。顧問[adviser]というのは請われて招かれ、専門分野で助言や指導を与えるひとを指す。招いた側の手足となってあれこれ下働きをする者ではない。
中国政府はまだ新興国でやっと国内主部の統一をしたばかり、急速に西洋諸国の文明をキャッチ・アップしなければならなかった。ちょうど明治期の日本政府が多数のお雇い外国人に頼ったように、多数の顧問を受け入れていた。関係が悪化する前の1920年までは日本からも年間50件の顧問を招いていた。ということは50人の日本人の顧問たちも中国のスパイとして働かされていたのだろうか?

1938年に勲章を授与された理由も、「安全区で難民のために人道的支援活動を行ったから」と考えるのが遥かに自然である(※)。また、南京攻略の後、日本軍が傀儡政権を樹立したあともベイツは金陵大学(南京大学)の副学長として、大学教育の発展に尽くした。ベイツが中国国民党の手先・スパイで「反日」であったとしたら、日本の傀儡政権の首都大学からさっさ逃げ出すのが普通ではないか。一方、国民党政権から見れば、南京事件の前後10数年間にわたって中国人の高等教育に尽くしてきたことは顕彰すべき功績であって叙勲は自然である。

ベイツ=中華民国顧問説
http://www.geocities.jp/yu77799/bates1.html

(※)1938年2月に南京を去ったラーベも、同年4月に国民政府から宝光嘉禾章を授与されている(『南京の真実』文庫版p303)。またヴォートリンは1941年にアメリカで命を断ったが、その直後に勲章を贈られている(『南京安全区の百日』p1)。

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