否定派の主張

南京事件の3ヶ月ほど前、昭和12年9月に米英仏は日本の南京空爆に対して無差別爆撃であると抗議した。スミス博士によるとこの空爆による死者は600人。しかし、南京虐殺については何の抗議も受けていない。

反論

南京爆撃は日本が自ら発表したが、南京における虐殺の実状は隠され、戦前には知られていなかった。爆撃は継続的なものであるが、虐殺は部分的に知られたときすでにほとんど終了していた。したがって、両者に対する各国の対応は違って当然である。

満州事変当時の錦州爆撃、日中戦争中の南京爆撃、重慶爆撃はいずれも欧米各国の強い批判を浴びた。また、ナチスによるスペインのゲルニカ爆撃もそうであった。当時はいわゆる「都市爆撃」「戦略爆撃」は非戦闘員である市民を犠牲にする国際法違反と考えられていた。

日本軍による無差別爆撃を見過ごせば、空襲に対するそれまでの国際的合意は崩れ、自国が無差別爆撃の脅威にさらされるおそれが出てくる。世界の秩序を公然と破った日本に対し各国が抗議したのは当然であった。また、爆撃は継続して行われているのであり、さらなる爆撃を中止させるために抗議は有効であった。

これに対して南京における虐殺を日本は隠した。外国人記者は受け入れられず、一連の捕虜・民間人の殺戮は「戦闘行為」と説明された。欧米がこの事件を知ったのは12月15日のスティール記者が最初である。日本軍が首都を陥落させた後に、中国人に対する怒りを爆発させて無法な殺戮を行ったことが伝えられた。しかし、一連の記事の範囲では不法な殺害が多数起こったが、戦争の際には起こりやすい偶発的な暴行であり一過性の現象と受け止められた。

事件が占領時の偶発事ですむくらいの規模ではなかったことを世界が知るのは、ティンパリーの"What War Means"が出版される1939年7月以後のことである。この本は知識人の間では知られたが、新聞などのメディアと異なり、大衆はこの事実を知らず、欧米各国や政府を動かす力は遙かに弱かった。また、数万人規模の虐殺があったとことが知れたときにはすでに虐殺は終っていた。したがってその時点では大量虐殺に抗議することに意味はなかった。虐殺規模が数万人にとどまらない規模だということが明らかになるのは、さらに後年のことである。

どんな大虐殺事件も世界に知られなければ批判されないし、知られた時点で継続されていなければ抗議は起こりようがない。現代においてもカンボジアの大虐殺、ルアンダの大虐殺は起こっていたときは知られていなかった。これに「抗議」した国はない。これに対してスーダンにおけるダルフールの虐殺は、今なお、虐殺が継続しているので抗議の対象となっている。

南京大虐殺は戦中においてその全貌は知られておらず、あくまで戦争中のエピソードのひとつに過ぎなかった。虐殺に抗議はしなかったが、欧米各国は日本の中国侵略そのものを批判したのである。南京大虐殺の意義は決して、日中戦争の意義を越えるものではない。虐殺や爆撃を伴う日本軍の戦闘行動は常に各国の非難の目に曝されていたのである。

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