陥落時の南京に市民は20万人しかいなかった。
第1の論拠 当時の南京の人口
以上の資料を総合してみると、当時の南京の人口は、12〜13万から最高20万の間とみてまちがいない。
(田中正明『南京事件の総括』p161より。漢数字はアラビア数字に置換)
まず「南京」の範囲を確認しておく。
1.南京安全区……南京城内の一区画
2.南京城内……城壁に囲まれた範囲
3.南京市……2に城外に隣接する市街地および近隣の農村部(郷区)を加えた地域
4.南京特別市(南京行政区)……3を含む江寧県など六県から成る広大な行政区
否定論者が「20万人」としているのは3の南京市の人口(正確には1の人口を20万として周辺地域は無人としている)であるが、果たしてそれは妥当な推測なのだろうか。
南京市の人口は、1937年3月末の時点では101万9667人だった(首都警察庁調べ、笠原十九司『南京事件』p219)。このうち城内とその周辺が約85万、郷区は約15万である。これが12月の南京戦までにどれほど減少したかが問題となる。
8月15日、南京に対して日本軍機による渡洋爆撃が実行される。これを皮切りに爆撃は数か月に渡り続くこととなった。南京市街は大きな被害を受け、安全のために市を脱出する者も出てきた。
これはスマイス報告の第1表に付された記述である(スマイスは報告で陥落当時の人口を20万〜25万としているが、郷区の人口を含めているかは明らかではない)。
日本軍が南京に侵攻しつつあった11月の中旬、国民政府は南京から重慶への遷都を決定する。国民政府は遷都に600台の自動車と220隻の船舶を動員し、結果として一般市民の輸送力は低下した。船舶が少なくなり乗船切符は高騰した。12月初旬には南京防衛軍司令官の唐生智は下関から浦口までの連絡船業務を停止し、城門を閉鎖した。そのため11月下旬から脱出できた市民、農民は多くなかった。また城外の住民は農民主体であり、城内の住民と比べると遠くに疎開する資力がある者は少なかった。
中国抗日戦争史学会編『南京大屠殺』には以下のような資料があるという。
笠原は、脱出の意思と能力のある者は11月下旬までには脱出を済ませており、また日本軍に追われ江南地域からの避難民が移動してきたとして、南京戦が開始された時点で市内にいた民間人は40万〜50万であったと推定している。
では有名な「20万」という数字の根拠はなんなのだろう。「20万」が登場する文献はラーベの日記や国際委員会の文書などである。
各種資料には南京戦が近づくにつれて人口が減少する様子が記されている。推定人口は最終的に20万という数字に落ち着くのだが、それを裏づける人口調査が行なわれた記録は存在しない。そもそも国民政府が大急ぎで脱出を図っていた慌しい時期に正確な人口を数える余裕などあったはずがない。20万というのは陥落の何週間も前から予想されていた大雑把な数字に過ぎず、たまたまそれが一人歩きしてしまっただけなのである。
さらに、南京の外国人たちは陥落時までに市民のほとんどが安全区に避難したと考えていた。彼らの資料にある「20万」は安全区の推定人口であるが、それを南京の人口と見なしていたのである。実際は安全区の外にも市民は残っており、陥落後に安全区の人口が増加したことで外国人は認識を修正している。
外部と隔絶された段階、1月までに登記された城内の人口は16万程度であるが、これは子供や一部の老人が含まれていないので、実数は20数万だったと考えられる(外国人は25万と考えていた)。陥落前には確実にそれ以上はいたわけである。また、陥落時に城外や郷区に留まっていた難民も存在したし、移動中の難民もいた。
陥落時点の南京市の人口を正確に測定することは今となっては不可能だが、少なくとも20万ということはありえないのである。
関連リンク
南京の人口(各種資料)
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/m...
二十万都市で三十万虐殺?(南京の範囲について説明)
http://www.geocities.jp/yu77799/jinkou.html
南京の人口は増えたのか?(20万という認識について検証)
http://www.geocities.jp/yu77799/jinkou2.html
1.南京安全区……南京城内の一区画
2.南京城内……城壁に囲まれた範囲
3.南京市……2に城外に隣接する市街地および近隣の農村部(郷区)を加えた地域
4.南京特別市(南京行政区)……3を含む江寧県など六県から成る広大な行政区
否定論者が「20万人」としているのは3の南京市の人口(正確には1の人口を20万として周辺地域は無人としている)であるが、果たしてそれは妥当な推測なのだろうか。
南京市の人口は、1937年3月末の時点では101万9667人だった(首都警察庁調べ、笠原十九司『南京事件』p219)。このうち城内とその周辺が約85万、郷区は約15万である。これが12月の南京戦までにどれほど減少したかが問題となる。
8月15日、南京に対して日本軍機による渡洋爆撃が実行される。これを皮切りに爆撃は数か月に渡り続くこととなった。南京市街は大きな被害を受け、安全のために市を脱出する者も出てきた。
ルイス・S・C・スマイス『南京地区における戦争被害』(1938年)
1年前,南京市の人口はちょうど100万をこしたところであった。この数字は8月・9月にかけて急減し,11月初旬にまた50万近くに戻った。
(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』p251より)
これはスマイス報告の第1表に付された記述である(スマイスは報告で陥落当時の人口を20万〜25万としているが、郷区の人口を含めているかは明らかではない)。
日本軍が南京に侵攻しつつあった11月の中旬、国民政府は南京から重慶への遷都を決定する。国民政府は遷都に600台の自動車と220隻の船舶を動員し、結果として一般市民の輸送力は低下した。船舶が少なくなり乗船切符は高騰した。12月初旬には南京防衛軍司令官の唐生智は下関から浦口までの連絡船業務を停止し、城門を閉鎖した。そのため11月下旬から脱出できた市民、農民は多くなかった。また城外の住民は農民主体であり、城内の住民と比べると遠くに疎開する資力がある者は少なかった。
中国抗日戦争史学会編『南京大屠殺』には以下のような資料があるという。
11月23日、南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡
「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民のための食糧送付が必要である」
(笠原十九司『南京事件』p220より。漢数字はアラビア数字に置換)
笠原は、脱出の意思と能力のある者は11月下旬までには脱出を済ませており、また日本軍に追われ江南地域からの避難民が移動してきたとして、南京戦が開始された時点で市内にいた民間人は40万〜50万であったと推定している。
では有名な「20万」という数字の根拠はなんなのだろう。「20万」が登場する文献はラーベの日記や国際委員会の文書などである。
・〔11月25日〕まだ20万人をこす非戦闘員がいると言うけれども。
・〔11月28日〕警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ20万人住んでいるとくりかえした。
(ジョン・ラーベ『南京の真実』文庫版p70,p77より。漢数字はアラビア数字に置換)
各種資料には南京戦が近づくにつれて人口が減少する様子が記されている。推定人口は最終的に20万という数字に落ち着くのだが、それを裏づける人口調査が行なわれた記録は存在しない。そもそも国民政府が大急ぎで脱出を図っていた慌しい時期に正確な人口を数える余裕などあったはずがない。20万というのは陥落の何週間も前から予想されていた大雑把な数字に過ぎず、たまたまそれが一人歩きしてしまっただけなのである。
さらに、南京の外国人たちは陥落時までに市民のほとんどが安全区に避難したと考えていた。彼らの資料にある「20万」は安全区の推定人口であるが、それを南京の人口と見なしていたのである。実際は安全区の外にも市民は残っており、陥落後に安全区の人口が増加したことで外国人は認識を修正している。
外部と隔絶された段階、1月までに登記された城内の人口は16万程度であるが、これは子供や一部の老人が含まれていないので、実数は20数万だったと考えられる(外国人は25万と考えていた)。陥落前には確実にそれ以上はいたわけである。また、陥落時に城外や郷区に留まっていた難民も存在したし、移動中の難民もいた。
陥落時点の南京市の人口を正確に測定することは今となっては不可能だが、少なくとも20万ということはありえないのである。
関連リンク
南京の人口(各種資料)
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/m...
二十万都市で三十万虐殺?(南京の範囲について説明)
http://www.geocities.jp/yu77799/jinkou.html
南京の人口は増えたのか?(20万という認識について検証)
http://www.geocities.jp/yu77799/jinkou2.html