否定派の主張

30万人全員が虐殺を順番待ちするはずがない。仮に南京市に30万人がいたとして、それだけの人数が順番待ちでもしてたかのように逃げずに殺されるなどという話は現実的にはありえない。

反論

南京事件についての概説書のひとつも読まず、自分の頭だけで想像している人の考えたことである。「30万人がまるで順番待ちをしていたかのように従順に殺されていった」という説を主張をしている人はいない。南京の人々はどのように逃げようとし、どのような形で殺害があったのかを概説する。

南京のひとたちは次の三つのやり方で殺された。
1.急襲されて逃げる間もなく殺された
2.逃げて逃げて、力尽き、その場で殺された
3.捕まえられて、銃を持った兵士に逃げられないように監視された後、集団的に殺された

1.12月13日、市の東南部に侵入した日本兵は民間人の住居に押し入って殺戮を繰り広げた。住民はまさか民家に押し入るとは思ってもいなかった。また、南京市街地の道路を歩く市民は発見次第銃撃して殺された。上河鎮などの城外周辺地域では逃げる中国軍に巻き込まれた民間人も日本兵に射殺された。

2.12月13日、市の城外東部においては逃げまどう敗残の中国兵が投降を許されず、その場で殺された。下関まで逃れた敗残兵と民間人は逃げ場を失ってその場で殺された。

3.12月中を通じ、多数の中国兵捕虜と民間人はいったん捕まえられたのち、集団で殺害された。中には殺害しないと騙されて連行されて殺害されたものもある。


事態が切迫してから逃げたもの、逃げようとしたものは多かったが、逃げ場所は限られていた。逃げていった先は次のようである。

1.陥落前:南京から揚子江北岸へ逃れた。南京郷区では、山や自宅近辺に隠れた。南京は北辺が揚子江に遮られ、歴史的にも守りにくい都市として知られる。揚子江の船便は12月初旬には中止された。12月初旬までに揚子江を渡ろうとしたものは多かったが、船賃が高騰して逃げられなかったものが多かった。戦いに備えて城門も閉鎖された。

2.陥落直後:城内から揚子江岸へ、安全区外から安全区へ、城外ではいくつかの難民区に市民は集中した。日本軍が南、西、東の三方から包囲しつつ攻め寄せてきたので、兵士は揚子江岸に追いつめられそこで集団的に殺害された。城北のユウ江門から逃げ出した一部の市民も兵士たちとともに江岸で犠牲になった。陥落後、城内南東部で多数の民間人が殺されていることがわかって、城内の安全区外から安全区に逃げ込んだものがいた。

3.陥落後:安全区内に日本軍が入り込んで連行・殺害を始めたが、城門は日本兵が管理し、人の出入りを許さなかったため城外に逃れることはできなかた。安全区の中でさえ危険であることがわかって、住民は一般の民家ではなく、少しでも人が密集しているところへ行けば安全ではないかと考え、難民収容所に逃れたため、どの収容所は満杯になった。

しかし、日本兵は難民収容所からも容赦なく、青壮年男子を中国兵の疑いで連行し、殺害した。そのため、多くの市民が犠牲になったが、日本軍に市民を絶滅しようという意図はなかった。日本軍は兵士のほとんどを連行・殺害し、治安上の不安を一掃したと信じるまで、集団殺害は続けた。しかし、日本軍兵士の私的な殺害はその後も続いた。そのため、日本軍が安全区を出るよう命じてからも、元の住居にはなかなか移らなかった。

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