否定派の主張

南京戦の当時、中国軍の清野作戦により多くの家屋が焼き払われた。また敗走する中国軍の手で多くの略奪や殺人が行なわれた記録もある。南京市民に被害を与えたのは日本軍ではなく中国軍である。

反論

強制疎開による家屋の焼却も敗走する中国軍の略奪も確かにあったと考えられる。
しかし、中国軍による家屋の焼き払いや略奪を記録している資料は、日本軍による被害も記録しており、例外なく日本軍による被害の方が大きいとしている。
中国軍による放火や略奪が日本軍による被害よりも大きかったという記録はなく、「すべて中国軍の仕業だ」「中国軍による被害が大きい」といった主張は裏付けのある事実ではない。

また、中国兵が一般市民の殺害を行ったという記述はアメリカ大使館副領事のジェームズ・エスピーの報告書にでてくるものが唯一のものであるが、どの程度の裏付けがあるのか明らかではない。
この報告書の「(中国兵は)市民の服欲しさに、殺人まで行った。」の記述の後には「しかしながら、日本軍が南京に入城するや、秩序の回復や混乱の終息どころか、たちまち恐怖統治が開始されることになった。」「正確な数は不明だが、少なくとも二万人がこのようにして殺害されたものと思われる。」とあり、「中国兵による殺害もなかったわけではないが日本軍による殺害が遥かに多い」と述べているに過ぎないことがわかる。

南京事件において中国軍による被害の方が大きかったという主張は、根拠の伴わない単なる願望である。

ミニー・ヴォートリンの日記

陥落前−中国軍による家屋の焼却の例
12月9日(木曜日)
「今夜は南京市の南西隅の空全体を火炎が照らしている。午後はほとんど、北西以外のすべての方角から濛々と煙が立ち昇っていた。中国軍のねらいは、すべての障害物、たとえば銃撃の邪魔になる物や、日本兵が待ち伏せしたり身を守るのに役立つ物を取り除くことなのだ。」

陥落後−日本軍による放火もしくは失火の例
12月19日(日曜日)
「今夜、城内の少なくとも三カ所で大きな火災が発生している。」
12月21日(火曜日)
「現在、大きな火災が北東から東へ、さらに南東の空を照らし出している。毎日、夜はこうした火災が空を照らし、昼間は濠々とあがる煙によって、いまなお掠奪と破壊の行為が続いていることがわかる。戦争の産み出すものは死と荒廃である。」

(『南京事件の日々』p41,p69,p73)
ルイス・S・C・スミス『南京地区における戦争被害』
●M・S・ベイツによるまえがき

南京の城壁に直接に接する市街部と南京の東南部郊外ぞいの町村の焼き払いは、中国軍が軍事上の措置としておこなったものである。それが適切なものであったかなかったかはわれわれの決定しうることではない。 市の東南の道路にそっておこなわれた軍事行動と四日間にわたった南京市に対する控えめではあるが容赦のない攻撃による住民の生命および財産の損害は、きわめて少なかった。事実上、城内の焼払いのすべてと近郊農村の焼払いの多くは日本軍によって数次にわたりおこなわれたものである(南京においては入城から一週間すぎて十二月十九日から二月初めまで)。調査期間中の全域にわたっておこなわれた略奪の大半と、一般市民にたいする暴行は、実際のところすべて日本軍の手によっておこなわれた。そのようなやり方が正当なものであるかそうでないかについては、われわれの判定を下すところではない。」

(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』p212)
南京アメリカ大使館報告(エスピー報告)
(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』に収録)

中国軍による放火
中国軍は軍事上の必要から、障害物などを除去するため、城外の広い範囲に放火した。しかし、退却中の中国兵による城内での放火・破壊・略奪等はほとんどなかった、とアメリカ人らは強調した。」p240

中国兵による略奪・殺人
「しかしながら、ここで触れておかなければならないのは、中国兵自身も略奪と無縁ではなかったことである。彼らは少なくともある程度まで、略奪に責任を負っている。日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって、市民と財産に対する侵犯が行われたのであった。気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件もたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った。この時期、退却中の兵士や市民までもが、散発的な略奪を働いたのは確かなようである。」p240

日本軍による大量処刑
しかしながら、日本軍が南京に入城するや、秩序の回復や混乱の終息どころか、たちまち恐怖統治が開始されることになった。十二月十三日夜、十四日朝には、すでに暴行が行われていた。城内の中国兵を「掃討」するため、まず最初に分遣隊が派遣された。市内の通りや建物は隈なく捜索され、兵士であった者および兵士の嫌疑を受けた者はことごとく組織的に銃殺された。正確な数は不明だが、少なくとも二万人がこのようにして殺害されたものと思われる。兵士と実際そうでなかった者の識別は、これといってなされなかった。ほんの些細なことから、兵士であったとの嫌疑をかけられた者は、例外なく連行され、銃殺された模様だ。中国政府軍の残兵はあまねく「掃討」するという日本軍の決定は、断固として変更されることはなかった。」p240-241

日本軍による放火・略奪
「当地の日本官憲によると、南京城内の火災の多くは、退却中の中国軍ないしは、便衣兵によるものであり、陥落後に発生したとの弁明がなされている。なかには 中国軍による火災もあるかもしれないが、占領後の日本軍が、故意に、または不注意で引き起こした火災には比べるべくもない、というのが妥当のようだ。日本兵が建物に侵入して略奪をした後、放火したか、それとも、建物内の小火が不注意から建物に燃え付いたものか、あるいは近くの火災から延焼したかのいずれかと思われる。火事を 起こした建物の消火に努めた形跡はまったく見当たらない。
 火災による南京市の破壊が最悪の時期に書かれた記録を添付している。国際委員会のメンバーが大火の原因を追求し、署名をしている。記録の第一章には、日本軍の入城以前に、どの程度が焼失していたか知る限りを述べ、当時火災による損害は大したことがなかったと証言している。第二章は、十二月二十日夜の状況を述べたもので、このとき沢山の建物が火災にあい、現場近くで火事見物をする日本兵や、店から洗いざらい品物を持ち出し、トラックで持ち逃げする日本兵、また別の建物では、「床の上で焚き火をする」日本兵が目撃されている。」p244

エスピー報告
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/espi.ht...

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