最終更新: kai6341gyo 2008年09月07日(日) 21:10:59履歴
南京入城には、100人以上の日本人の記者やカメラマンが同行した。当時はまだ報道管制が行われていない。しかし、戦後、日本人は東京裁判で報道されるまで誰も「大虐殺」を知らなかった。見ていれば、報道しただろう。また、陥落の直後の南京には、大宅壮一、西条八十、草野心平、石川達三、林芙美子らのジャーナリストや作家・文人が行っていた。しかし、戦後言論の自由が完全に保証されてからも、誰一人、「大虐殺」を書き記したり、発表した者がいない。(田中正明『南京事件の総括』pp225)
確かに南京事件そのものへの箝口令があったわけではない。
しかし、昭和12年には新聞の報道内容を規制する通達が多数出されており、日本の大新聞は軍に批判的な記事、残虐行為の記事は書けなかった。軍に不利な報道そのものが禁止されていたのである。
小説家やミニコミ紙の記事には、残虐行為について記載したものがあり、取り締まりの対象となったケースがある。
たとえば石川達三は昭和13年に南京攻略戦後に南京に入城し、そこでの見聞を小説「生きてゐる兵隊」として雑誌「中央公論」に発表し、「新聞紙法違反」に問われて、発禁処分、禁固4ヶ月の判決を受けた。
また、旧軍幹部や外務省幹部のメモ、日記などに日本軍の残虐行為の事実、あるいはその報告があったことを伝えているものが数々存在する。
次項で述べるように、戦後になって、自らの見聞した「虐殺」について証言したジャーナリストも何人もいる。
大宅壮一は週刊誌の対談で「入城前後、入城までの過程において相当の大虐殺があったことは事実だと思う。三十万とか、建物の三分の一とか、数字はちょっと信用できないけどね。まあ相当の大規模の虐殺があったということは、私も目撃者として十分いえるね。」(「サンデー毎日」臨時増刊 1966年10月20日号 P78)と発言している。
「南京事件」と報道規制
http://www.geocities.jp/yu77799/houdoukisei.html
資料:軍機軍略記事の新聞紙掲載禁止
しかし、昭和12年には新聞の報道内容を規制する通達が多数出されており、日本の大新聞は軍に批判的な記事、残虐行為の記事は書けなかった。軍に不利な報道そのものが禁止されていたのである。
小説家やミニコミ紙の記事には、残虐行為について記載したものがあり、取り締まりの対象となったケースがある。
たとえば石川達三は昭和13年に南京攻略戦後に南京に入城し、そこでの見聞を小説「生きてゐる兵隊」として雑誌「中央公論」に発表し、「新聞紙法違反」に問われて、発禁処分、禁固4ヶ月の判決を受けた。
また、旧軍幹部や外務省幹部のメモ、日記などに日本軍の残虐行為の事実、あるいはその報告があったことを伝えているものが数々存在する。
次項で述べるように、戦後になって、自らの見聞した「虐殺」について証言したジャーナリストも何人もいる。
大宅壮一は週刊誌の対談で「入城前後、入城までの過程において相当の大虐殺があったことは事実だと思う。三十万とか、建物の三分の一とか、数字はちょっと信用できないけどね。まあ相当の大規模の虐殺があったということは、私も目撃者として十分いえるね。」(「サンデー毎日」臨時増刊 1966年10月20日号 P78)と発言している。
「南京事件」と報道規制
http://www.geocities.jp/yu77799/houdoukisei.html
1937年7月13日、内務省警保局図書課通牒「時局に関する記事取扱に関する件」
(下記に該当する報道はすべて厳重な取締の対象となった)
・「反戦又は反軍的言説を為し、或いは軍民離間を招来せしむるが如き事項」
・「我が国民を好戦的国民なりと印象せしむるが如き記事、或いは我が国の対外国策を侵略主義的なるが如き疑惑を生ぜしむる虞ある事項」
・「外国新聞、特に支那新聞等の論調を紹介するに当り、殊更に我が国を誹謗し、又は我が国に不利なる記事を転載し、或いは之等を容認又は肯定するが如き言説を為し、延て一般国民の事変に対する判断を誤まらしむる虞ある事項」
1937年8月2日、憲兵司令部警務部長通牒「時局に関する言論、文書取締に関する件」
(以下のような言論、文書を取り締まるよう各憲兵隊に通達している)
・「事変の経過又は戦地の状況等を論議するに当り、皇軍の名誉威信を損じ又は軍紀の厳正を疑わしむるが如き事項」
・「国境を超越する人類愛又は生命尊重、肉親愛等を基調として現実を軽蔑する如く強調又は諷刺し、為に犠牲奉公の精神を動揺減退せしむる虞ある事項」
(参考:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』p55-56)
石川達三
「読売新聞」昭和21年5月9日
−兵は彼女の下着をも引き裂いた すると突然彼らの目のまへに白い女のあらはな全身がさらされた。みごとに肉づいた、胸の両側に丸い乳房がぴんと張つてゐた …近藤一等兵は腰の短剣を抜いて裸の女の上にのつそりまたがつた …彼は物もいはずに右手の短剣を力かぎりに女の乳房の下に突き立てた―
"生きてゐる兵隊"の一節だ、かうして女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、
入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大変なものだつた、大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた
また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使ふのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で片ツぱしから殺害した
大宅壮一 南京大虐殺の”真相”を聞く
(「サンデー毎日」臨時増刊 1966年10月20日号p78)
「入城前後、入城までの過程において相当の大虐殺があったことは事実だと思う。三十万とか、建物の三分の一とか、数字はちょっと信用できないけどね。まあ相当の大規模の虐殺があったということは、私も目撃者として十分いえるね。」
http://www.geocities.jp/yu77799/bunkajin.html
資料:軍機軍略記事の新聞紙掲載禁止