最終更新: tarari1036 2018年11月29日(木) 19:22:04履歴
大量の捕虜を獲得した当時の新聞記事があり、後々まで日本人の記憶にありました。
戦後になってあの大量の捕虜はその後どうなったか、虐殺されたのではないかと研究が始まります。
大阪朝日新聞」昭和十二年十二月十七日
未聞の大捕虜群 ”殺さぬ”に狂喜し拍手喝采
句容敗戦が致命傷 沈参謀なげく
【南京にて横田特派員 十六日発】
両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地にて捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は、なにしろ前代未聞の大捕虜群とて捕へた部隊の方が聊かあきれ気味で、こちらは比較にならぬほどの少数のため手が廻りきれぬ始末、まづ銃剣をすてさせ附近の兵営に押しこんだ。
戦後になってあの大量の捕虜はその後どうなったか、虐殺されたのではないかと研究が始まります。
その過程で当時の歩兵第65連隊関係者から捕虜は8000人しかいなかった、という証言がでてきます。山田旅団(支隊)の歩兵第65連隊長両角業作元大佐氏がメモを書き、8000人しかいなかったとします。
この認識は公式の戦史(戦史叢書『支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで』)に引き継がれていますが、ほとんど両角メモと同文です。
両角メモ「幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは八千人程度であった」(阿部輝郎取材)
この認識は公式の戦史(戦史叢書『支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで』)に引き継がれていますが、ほとんど両角メモと同文です。
・・・・第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは15日、山田旅団が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約8千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した。・・・・
実は最初の14777人の捕虜獲得の後も捕虜は増え続けており、両角メモの15300人は増加の最中の数字です。両角氏は民間人を解放したので8000人になったと称しています。民間人の解放をするとすれば、収容の直前にするのが当然です。民間人は捕虜として収容する意味がないし、収容すれば飯も食わせなければなりません。『支那事変陸軍作戦』では15日(ママ)に捕虜収容と民間人解放を行ったとしています。ではこの解放はいつの時点で行われたのか。
前述の12月17付け(発信は12月16日)大阪朝日新聞の記事の後段を示します。
そして、16日には遠藤少尉が横田記者に逢った記事があります。
16日午後3時には捕虜数はさらに増えて17000人に達しており、この時点まで民間人の解放はなかったことが明らかです。午後3時から「夕刻」までの間に民間人の解放がありえるのか。
遠藤少尉らと入れ替えに捕虜の監視にまわった兵士も民間人の解放があったことなど記録していません。捕虜の三分の一を銃殺に行く前に捕虜の半数(以上)を解放するようなことがあれば、そのような重大事は必ず記録されたはずでした。
幕府山事件の民間研究者、小野賢二氏はさら多数の元兵士・将校からの聴き取りをして解放はなかったとしています。
前述の12月17付け(発信は12月16日)大阪朝日新聞の記事の後段を示します。
それが皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ、一番弱ったのは食事で、部隊でさへ現地で求めているところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到頭食はせることが出来なかった。最初に捕虜獲得したのが14日、その日の夜は食事なし。15日夜には食事をさせたということです。もし、15日の日中に民間人の解放をして8000人になっていたとすれば、茶碗の数が一万五千も必要だったとは言わないはずです。
そして、16日には遠藤少尉が横田記者に逢った記事があります。
遠藤高明 歩兵第65連隊第8中隊・少尉
十二月十六日 晴
午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に逢い一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し1(第1大隊)に於て射殺す。
16日午後3時には捕虜数はさらに増えて17000人に達しており、この時点まで民間人の解放はなかったことが明らかです。午後3時から「夕刻」までの間に民間人の解放がありえるのか。
近藤栄四郎(仮名・山砲兵第19連隊第8中隊・伍長)
〔十二月〕十六日
(略)
午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本の様だ、お陰で随分酩酊した。 夕方二万の捕慮〔虜〕が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。
遠藤少尉らと入れ替えに捕虜の監視にまわった兵士も民間人の解放があったことなど記録していません。捕虜の三分の一を銃殺に行く前に捕虜の半数(以上)を解放するようなことがあれば、そのような重大事は必ず記録されたはずでした。
幕府山事件の民間研究者、小野賢二氏はさら多数の元兵士・将校からの聴き取りをして解放はなかったとしています。
「シンポジウム 南京事件研究の現状と今後の課題」より(1991年12月)
小野賢二氏発言
収容所に入れる時にその捕虜は解放したのかどうか。これは「解放したのですか」と聞くと、ほとんどの人は「わからない」というのですね。調べている私もわからない。 「解放作業をやりましたか」と聞きますと、みんな「やらない」。万単位の捕虜ですから、百七十人も聞けば誰か一人ぐらいはタッチしてないとおかしいですよね。だから、解放はしていないと考えられます。 (『南京大虐殺 日本人への告発』P122)