南京事件FAQ - 欧米の大使館も事件を記録していた

否定派の主張

南京事件の3ヶ月ほど前、1937年9月に米英仏は日本の南京空爆に対して無差別爆撃であると抗議した。スミス博士によるとこの空爆による死者は600人。
しかし、南京虐殺については何の抗議もしていない。日本嫌いで有名なドイツ大使館の書記官も虐殺にはまったく触れていない。これは南京大虐殺が虚構である証拠である。

反論

米英などからの自国被害への抗議はあった 。

各国の大使館など外交団とは、まず第一にその土地における自国の権益、自国民の生命、財産の保護のために駐在している。外交上の抗議とは、まず第一に自国の権益、自国民の生命、財産の保護の観点からなされるものだ。
米英からは、米英人財産の損失に関して、アメリカ、イギリスの砲艦を爆撃して死傷者の出たことについて、またアメリカ外交官への軍人による暴行に対して抗議があった。
都市爆撃については多くの外国人が居住していた都市に実質的な無差別爆撃が行われれば、居留外国人の生命、財産に危険が及ぶので当然抗議がなされる。
外国人への退去勧告がなされた12月9日以降の、南京占領後に発生した中国人への暴行は、米英人の財産、生命、権益への直接の侵害ではないので、外交上の抗議はなされなかったというだけのことである。

第三国から虐殺についての公式の抗議がなかったからといって、虐殺がなかった、それを知らなかった、と安直に決めつけてはいけない。アメリカ、ドイツの外交文書には日本軍の残虐行為を記録したものが多数残されているのである。
「日本嫌いで有名なドイツ大使館の書記官」というのはローゼンのことかと思われるが、ローゼンはもちろん、その反日的態度に辟易していた同僚シャルフェンベルクさえも日本軍の暴行についてしっかり報告している。

南京アメリカ大使館 エスピー副領事の報告(1938年1月15日-24日作成)

日本軍の入城以後、したい放題が兵士に許されていたのかどうか、それとも軍の統制が完全に瓦解していたのか、十分な説明はなされていない。しかし、われわれの聞いたところによると、日本軍指揮官より、兵士を統制下におくよう少なくとも二回の命令が出され、また、入城前、いかなる財産にも放火しないよう、厳命が出されていた。
 それにもかかわらず、大勢の兵士が市内に群がり、筆舌に尽くし難い凶行を犯したことは事実である。外国人目撃者の話によると、南京を冒涜する野蛮な盗賊同様に、日本兵は欲しいがままに振舞っていた。市内では数えきれないほど大勢の男性、女性、子供が殺害された。理由もなく市民が銃殺、刺殺されたと聞かされている。

(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p241-242)
南京ドイツ大使館分館 書記官ローゼンの報告(1938年2月10日付)

 内容――南京における日本軍の残虐行為に関する記録フィルム
 南京における日本軍の恐怖支配――それは、かなりの程度でいまだに続いているが――の間、およそ四半世紀にわたり当地に在住する米国監督派教会伝道団員のジョン・マギー牧師が映画撮影をおこなったが、その記録は日本軍のおこなった残虐行為を雄弁にものがたる証拠となっている。
[略]
 それぞれの映像の背景となった出来事に関する英文の解説が添付されている。フィルムと同様、この解説も衝撃的な歴史資料であり、〔ヒトラー〕総統閣下には、このフィルムを解説の正確な訳文とともに御覧いただきたいと所望する。
 さて私は、先の日曜日に日本軍が引き起こした「英雄的行為」の現場とその四人の犠牲者をこの目で見た。そこでは二脚の椅子を運んでいた老人が、日本兵にいとも簡単に銃で撃たれた。この老人の姉は、日本兵が接近したので近くに隠れていたが、知りあいの二人を呼んで、竹竿と縄で戸を担架に作り変え、重傷の老人を運び去ろうとした。すると日本兵は、重傷の老人と姉、老人を運ぼうとした二名、合わせて四名全員を射殺したのだ。[略]
 同じ日曜日ラーべ氏は、紅卍字会が、池から一二〇以上の死体を運び出す様子を目撃した。これらの人々は、まず機関銃で殺され、その後で焼かれた。焼却に手問取ると、死体は水中に投げ込まれたのである。英雄気取りの島国民族に殺された犠牲者の死体は針金で後ろ手に縛られていた。

(『ドイツ外交官の見た南京事件』p164)
南京ドイツ大使館分館 事務長シャルフェンベルクの報告(1938年2月1日付)

 南京入城のさいの日本軍の所業については、語らぬに越したことはない。チンギス=ハーンを思い出さずにはいられないほどの徹底した破壊ぶりであった。ある陸軍参謀の中佐の話では、上海から南京へ向かっていた食糧輸送部隊はついに本隊のもとに戻らなかったそうである。この一件からも、日本軍がここではまるであのベルゼルカーのごとく何もかも貧り尽くしたことがわかるであろう。空き家はただちに焼き払われた。日本兵は、一九一八年当時の黒人兵同様、こう言い含められていたに違いない「ここで頑張った奴はみな、南京で美しい娘をモノにできるぞ。」こうして南京に残っていた女という女はまったくひどい目にあわされた。[略]
 日本軍は統制が失われたと言えば簡単だが、私はそうは思わない。アジア人の戦争の進め方は、われわれとは異なるのだ。日本と中国の立場が逆でも、事態に大差はなかっただろう。とくに扇動の仕方は同じである。

(『ドイツ外交官の見た南京事件』p85)

エスピー報告(全文)
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/espi.ht...