南京事件FAQ - 城外の人口の資料

宝塔橋難民区

南京城の北西側、揚子江に面した下関区の東端には「宝塔橋難民区」と呼ばれる避難区が成立していた。これは宝塔橋街およびそれに隣接した和記洋行の敷地が避難区となっていたものと思われる。この宝塔橋難民区も日本軍の暴行から免れることはできなかった。
陳徳貴からの聞き取り

 陳徳貴さん(五三歳)は、いま南京の下関運輸公司に勤める積みおろし工である、日本軍が南京を占領したとき、陳さんは他の市民らとともに、そのころ「宝塔橋難民区」と呼ばれていた地区へ避難した。ここにはイギリス人の経営していた「和記洋行」という肉類加工工場があった。(現在もこの工場は肉類加工工場として引き継がれ、発展している。)南京城の西北の外にあり、長江に比較的近い位置にある。この一帯はイギリスの租界地なので、日本軍が勝手に侵入できないかもしれないという望みを抱いて、たくさんの住民が避難したのだった。

(『中国の旅』p243-244)
万澄泉の証言

それからはわたしたち二人下関の宝塔橋難民区に入って、ずっと安全でした。

(『この事実を……』p29)
東京裁判 不提出書証〔検証一七八二〕

 日本兵は附近一帯の捜索をなし、遠ければ銃撃し、近ければ刺殺した。鶏や犬まで殺された。翌十二月十四日。日本兵は挹江門を突破した後、再び軒並みの捜索を行ひ人を見れば殺した。和記洋行工廠に於ては数千、宝塔橋に於ては数百の地方民並に武装解除された軍隊が俘虜となつた。彼等は煤炭港の倉庫に入れられ、扉が閉された。日本兵は彼等を機関銃で殺戮し、屍体に石油をかけ、火をつけた。

(『南京大残虐事件資料集 第1巻』p385-386。片仮名は平仮名に修正)

この難民区を含む揚子江岸全体にどれだけの数の難民が残っていたかは判然としない。保国寺という場所に6000〜7000人いたという証言と、12月29日の時点で揚子江岸(具体的にどこからどこまでを指すかは不明)に2万人の難民がいるという記録がある。
砲艦比良艦長・土井申二中佐の証言

――中興碼頭の様子はどうでした?
「そのあたりは宝塔橋街といい、中国軍の軍需物資の基地だったところです。軍需物資がたくさんあり、そのための引込線もありました。
 難民が保国寺に六、七千人ほどいました

(『「南京事件」日本人48人の証言』p255)
『戦争とは何か』第二章

〔12月29日〕河岸におよそ二万人の難民がいるという下関からの伝言が、中国赤十字社の代表をつうじてとどきました。

(『南京大残虐事件資料集 第2巻』p41)

法雲寺の難民区

城壁南側沿いを流れ、南京城の西で揚子江に流れ出る三汊河の河口付近に位置する法雲寺(=放生寺)にも難民が集まっていた記録がある。やはりこちらも被害証言である。
駱中洋の証言

 12月14日の夜が明けたばかりの頃、船の主が帰って来て、わたしたちに出ていかせようとしました。わたしたちは岸には日本兵がいて、命の危険があるのだ、と言いました。船の主はあんたたちは難民証がないなら、船にいても命の保証はし切れない、と言いました。わたしたちもそう聞いて尤もだと思い、法雲寺の難民区へ行ったら、そこにはお爺さんお婆さん、中壮年、婦女子や児童がいて、わたしたちはその人の群に混じって、その人たちの家の人にさせてもらいました。けれども日本兵がしょっちゅう検査に来て、着ている物をひっくり返して見せろ、掌を見せろ、軍人だった痕跡があるかないか、難民証(良民証)が無い奴は中国兵だ、引きずり出して殺しちまうんだ、というようなわけで、難民区の外側に、あちこちに死体がいっぱい散らばっていましたが、その人たちはこういう状況で死んだのです。

(『この事実を……』p44)
郭学根の証言

 12月14日に、日本軍は中国兵を探し出すという名目で、放生寺にやって来て青壮年二百人余りと若い婦女子五十人余りとを引っ張って行きました。日本軍は青壮年を揚子小麦粉工廠の裏門広場に連行し、機関銃で全部殺害し、五十人余りの婦女子が日本軍に集団輪姦されましたが、その内のある婦女子は強姦された後、殺害されました。わたしは放生寺にいて、ある友達が国際紅卍字会の腕章をくれたので幸いにも難を免れました。

(『この事実を……』p58)
畢正清の証言

「民国二十六年〔一九三七年〕(旧暦十一月十五日)三汊河の放生寺と仏教慈幼院はいずれも難民収容所となっていましたが、敵侵略軍が入城してのち、好き放題の虐殺をおこない、三汊河収容所まで逃げてきていた難民と兵士も惨殺されました。日寇はかれらを三汊河の岸辺まで押送し、機銃掃射を加えました。河岸でまのあたりにした死体は約五百人でした。」

(『証言・南京大虐殺』p32)

上新河鎮の難民区

上新河鎮(南京城の南西に位置する揚子江岸の町)にも臨時の難民区が成立していたという証言がある。やはり被害証言である。

秦傑(男、1926年3月生まれ)の証言

 上新河鎮に戻ったら、もともと鎮に留まって家を見たり鎮を護ったりした四人の白髪混じりの老人がたは、既にみんな撃ち殺され、街の端に倒れていて、父は日本兵の一人に銃の先をこめかみに着けられましたが、幸いに行を共にした難民たちと母とが切々と哀訴し、撃ち殺されませんでした。わたしたちと行を共にした従兄嫁は、衆人環視の下に屋内に引きずり込まれ強姦されました。上新河鎮の臨時難民区では、しょっちゅう青年婦女が強姦に引きずり出されるのが見え、彼女たちの悲惨な救いを叫び求める声が聞こえました。
 わたしたち上新河鎮の臨時難民区に一ヶ月余り住まい、又城内に入り、金陵大学の臨時難民区に移り住んだところ、叔母の一人が子を生んで間もなく、日本の賊に強姦され子宮内出血で死んだと分かりました。寡婦だった親戚が強く迫られて沼に跳び込み自殺してしまい、生きていられた親戚や友人はみんな自分たちの城内で九死に一生を得た経過を話してくれました。

(『この事実を……』p294)