南京事件FAQ - 崇善堂が埋葬活動をしていたことは事実

否定派の主張

崇善堂の埋葬報告は捏造である
「民国24年度(1935年)南京市政府行政統計報告」によると崇善堂の事業内容は施材(主として衣料給与)、寡婦の救済、保育等の事業が主で、掩埋(葬儀・埋葬)はやっていない。

「中華民国27年度南京市概況」によると、資金難に陥った民間の慈善団体として事業再開のための補助金を受けた26団体の一覧表に崇善堂も含まれ、そこには「工作進行範囲狭小」と書かれている。崇善堂は南京事件当時は一時活動を休止しており、活動を再開したのは、1938年9月である。

また督弁南京市政公署にも埋葬団体としては紅卍氏会と自治委員会しか記されていない。(阿羅健一昭和60年8月10日サンケイ新聞)

反論

崇善堂は寡婦救済、保育援助、棺材の施し、診療所の運営を行う総合的慈善団体であった。田地、土地、家屋から上がる地代、家賃で運営されていた。同胞の死体が散乱している状況では埋葬を主たる事業としたのは当然の成り行きである。堂長の周一漁が「崇字掩埋隊」を組織し自ら隊長となった。

1938年2月6日付けで南京市自治委員会に宛てた手紙で「査するに弊堂が埋葬隊長を成立させてから今まで一ヶ月近くたち」とあるので1月から作業をはじめていることがわかる。この手紙では同時に崇善堂所有の自動車部品の供給を願い出ている。

否定派はこれをつかまえて、自動車は1台しかなく、それも故障しているから多数の埋葬はできない、などとするが、当時において自動車を所有していたということは大きな財源をもっていたことを示している。

埋葬隊は4つの分隊からなり、主任1人、隊員1人、常雇い10人からなっていた。4隊約50人では到底人手が足りず、城内では臨時作業員を日当で雇い、城外では現地の農民が作業に協力したとされる。後に埋葬を行った民間団体は数個あったことが明らかになった。督弁南京市政公署が記すのは埋葬を援助した団体に限られていると解される。