
2022/7/8よりコロナ967で9の時代
そろそろ蘇民将来する、
将来民が蘇る。8000000の神。
蘇民将来・最古の文献
和銅6年(713)あるいは、延長2年(924)の備後国風土記(びんごふどき)逸文
備後《きびのみちのしり》の國の風土記《ふどき》に曰《い》はく、疫隅《えのくま》の國社《くにつやしろ》。
昔、北の海に坐《いま》しし武塔《むたふ》の?、南の海の?の女子《むすめ》を、よばひに出《いで》まししに、日暮れぬ。彼《そ》の所《ところ》に、將來《しやうらい》二人《ふたり》ありき。兄《あに》の蘇民將來《そみんしやうらい》は甚《いた》く貧窮《まづ》しく、弟《おと》の將來《しやうらい》は富饒《と》みて、屋倉一百《いへくらもも》ありき。爰《ここ》に、武塔《むたふ》の?、宿處《やどり》を借《か》りたまふに、惜《をし》みて借《か》さず、兄《あに》の蘇民將來《そみんしやうらい》、借《か》し奉《まつ》りき。即《すなは》ち、粟柄《あはがら》を以《も》ちて、座《みまし》と爲《な》し、粟?《あわいひども》を以《も》ちて饗《みあ》へ奉《まつ》りき。爰《ここ》に畢《を》へて出でませる後《のち》に、年を經《へ》て、八柱《やはしら》のみ子を率《ゐ》て還《かへ》り來て詔《の》りたまひしく、「我《われ》、將來《しやうらい》に報答爲《むくひせ》む。汝《いまし》が子孫《うみのこ》其の家《いへ》にありや」と問ひたまひき。蘇民將來《そみんしやうらい》、答《こた》へて申《まを》ししく、「己《おの》が女子《むすめ》と斯《こ》の婦《め》と侍《さもら》ふ」と申しき。即《すなは》ち、詔《の》りたまひく、「茅《ち》の輪《わ》を以《も》ちて、腰《こし》の上《うへ》に着《つ》けしめよ」とのりたまひき。詔《みことのり》の隨《まにま》に着《つ》けしむるに、即夜《そのよ》に蘇民《そみん》の女子《むすめ》一人《ひとり》を置《お》きて、皆悉《ことごと》にころしほろぼしてき。即《すなは》ち、詔《の》りたまひしく、「吾《あ》は速須佐雄《はやすさのを》の?なり。後《のち》の世に疾氣《えやみ》あらば、汝《いまし》、蘇民將來《そみんしやうらい》の子孫《うみのこ》と云《い》ひて、茅《ち》の輪《わ》を以《も》ちて、腰《こし》に着《つ》けたる人は免《まぬが》れなむ。」と詔《の》りたまひき。
「備後国風土記」の蘇民説話
蘇民将来符
上田市指定民俗文化財。信濃国分寺が護符として頒布する。除災招福を願って神棚や仏壇にそなえるが戸口に吊したり、1センチほどのケシと呼ばれるものは懐中に携える。
「備後国風土記」は、鎌倉時代末期の『釈日本記』に引用記載されていることから逸文*1として伝存している。風土記は、和銅6年(713)中央官命*2により作成された報告公文書で、いつ編述が完了したかは明らかでないが、早くても官命後数年を要したと思われる。
この備後国(現広島県東部)風土記逸文に、わが国で最も古い蘇民説話が見られ、原文を要約するとおよそ次のようになる。
最古の蘇民将来札
〜長岡京から出土したお守り〜
八坂神社・祇園祭
京都市東山区祇園町北側625番地 電話 075-561-6155
祇園祭
豪壮かつ華麗な祇園祭は、千百年の伝統を有する八坂神社の祭礼です。古くは、祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、貞観11年(869)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行したとき、「これは祇園牛頭天王の祟りである」として、平安京の広大な庭園であった神泉苑に、当時の国の数−66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祭り、さらに神輿をも送って、災厄の除去を祈ったことにはじまります。祇園祭は、7月1日の「吉符入り」にはじまり、31日の境内摂社「疫神社夏越祓」で幕を閉じるまで、1ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられます。祇園祭では、「蘇民将来之子孫也」の護符を身につけて祭りに奉仕します。また7月31日には、蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「疫神社」において「夏越祓」が行われ、「茅之輪守」(「蘇民将来之子孫也」護符)と「粟餅」を社前で授与いたします。このお祭をもって一ヶ月間の祇園祭も幕を閉じます。
怨霊は御霊(ゴリョウ)といい、これを退散させる祭りを御霊会(ゴリョウエ)と称し、貞観7年(865)6月7日にも行われたことが『三代実録』に記されています。
牛頭天皇
祇園の神である素戔嗚尊は、インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神であるゴヅテンノウ(牛頭天王)ともされています。牛頭天王とは、新羅に牛頭山という山があり、熱病に効果のある栴檀(センダン)を産したところから、この山の名を冠した神と同一視されました。
素戔嗚尊との習合
それというのも、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記され、「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語で、牛頭または牛首を意味し、韓国には各地に牛頭山という名の山や牛頭の名の付や島がある由です。さらにインドの密教や陰陽道の信仰とも混じりあって、神仏習合の形で祇園信仰が広まりました。つまり祇園の神といえばわが国固有の神道と、インドに成立した仏教と、中国の道教等の習合によって生み出された、国際的な神さまなのです。すさお祇園祭が始まったのは、平安京が定められて、都市化が進んだ貞観11年ですが、祇園さんが鎮祭されたのは、それよりさらに古く、奈良時代以前に遡ります。記録の上では詳らかでありませんが、斉明天皇2年(656)高句麗の使、伊利之使主(イリシオミ)が来朝したときと伝えられています。伊利之は『新撰姓氏録』に八坂造の祖に、意利佐の名がみえ、祇園社附近はもと八坂郷と称したことによります。すなわち、韓国より渡来した人々が住みついて、牛頭天王をまつったのでありましょうが、わが国人にとっては、素戔嗚尊でありました。この神を武塔天神とも申しました。そのことは、『伊呂波字類抄』に、天竺北方の九相国に吉祥園があり、牛頭天王はその城の王で武塔天神ともいう。と記されており、さらに『備後国風土記』の逸文には、昔、武塔神が旅の途中、蘇民将来は貧しかったけれども宿を貸してもてなし、弟巨旦将来は富み栄えていたが断ったため、後に疫病が流行したとき、蘇民将来の子孫には茅の輪をつけて災から免れさせたが、その他の者はことごとく死に絶えた。という説話が記されていまして、これに「われはハヤスサノヲの神なり」と仰せられたとあることによります。釈日本紀』には「これすなわち祇園社の本縁なり」ともありまして、古くより、牛頭天王=武塔神が、素戔嗚尊と習合されていたことが判明します。
お正月にもなると伊勢・志摩の家々の玄関に飾られていた注連縄(しめなわ)と 蘇民(そみん)将来札(しょうらいふだ)が新調される。 以前神島(かみしま)を訪れたときも、 あちこちの玄関先に蘇民将来札が架けられていて驚いたことがある。 通りがかりの婦人によると、札は年末になると大工さんが新しいものを作って届けてくれるという。実は私の研究室の入口にも「海の博物館」で買った札が置いてある。訪れる人に病が降りかからないように!と祈ってのことである。 民俗例には様々なものがあるが、信州の蘇民将来札はこけし状をしていて有名である。京都に生まれ育った私には、玄関先のお札は珍しいが、蘇民将来とは切っても切れない縁がある。 祇園祭を主催する八坂(やさか)神社がこの信仰のメッカなのである。そもそも祇園祭とは平安京に流行った疫病の根絶を求めて開始されたお祭である。その昔、スサノオノミコトが南海の女神に求婚のため旅に出かけた。 巨旦将来、蘇民将来兄弟の住む村で日が暮れ、宿泊を頼んだところ、豊かな暮らしの兄には断られ、貧しい弟は快く泊めてくれた。 神は立ち去るとき「今後、疫病が流行ったら、自ら蘇民将来の子孫と言い、 腰に茅(ち)の輪を付けなさい、そうすれば免れる」と言い残した。」 スサノオノミコトを祭神とする八坂神社が注目されたのはそのためである。ところで発掘調査ではこれまでに五〇点余の蘇民将来札が出土している。 大半が中・近世のもので、三重県内でも伊勢寺遺跡など三ヶ所で知られる。
今にいきづく呪符「蘇民将来子孫」
今年も、残すところあとわずかになりました。お正月を迎える準備は、もうお済みですか。数々の迎春準備の うちで、欠くことのできないものの一つに注連飾(しめかざ)りがあります。玄関や門口に注連縄を張ったり、 門飾りを飾ると、いよいよお正月を待つばかりとなります。日本各地で見ることができ、お正月の風物詩とも言えるこの注連飾りに少し目を向けてみてください。ここ三 重県、特に南勢・志摩では、よく「蘇民(そみん)将来子孫家門」・「蘇民将来子孫門」の文字が書かれていま す。この「蘇民将来子孫」について、『宇治山田市史』等では『備後風土記逸文』を引用して、スサノオノミコトが、南海への旅の途中、蘇民将来・巨旦(こたん)将来という名前の二人の兄弟のいる 地に立ち寄り、そこで、ミコトは一晩泊めてくれるよう二人に頼みました。弟の巨旦はとても裕福だったのです が、断りました。兄の蘇民は貧しかったのですが、親切にミコトを泊めてあげました。スサノオノミコトは喜び 、蘇民に「今後、この地に悪い病気が流行ったときには、蘇民将来の子孫であると言い、茅輪(ちのわ)(茅や藁(わら)を束ねて作った大きな輪)を腰に着けなさい。そうすれば病気を免がれるでしょう」と言って、その地を立ち去った。という言い伝えを載せていますが、こうしたことからか、現在でも札に蘇民将来子孫と書いた注連縄を飾り、家 の中に邪霊が入るのを防ぐ呪符の意味を持たせているようです。
また、近年では「笑門」と書かれた注連飾りもよく見かけます。これは文字どおり「笑う門には福来る」を連 想させるものですが、これらの注連飾りは一年中飾っておかれ、毎年大晦日に新しいものと取り替えられます。 注連飾りを一年中飾っておくのも、南勢・志摩地域独特の風習です。このように、今日は、南勢・志摩の注連飾りなど、今に残る民俗資料が地域の文化や風俗を語り、重要な歴史 の資料であるというお話をしました。