○ ニニギ(瓊々杵命) 降臨神話は応神天皇の投影!
秦氏(はたうじ)は確かに半島からの渡海人であるが、彼らはそもそも流民であった。そして、彼らを迎えた応神天皇は、実は秦の直系王族らしい。
さて、応神天皇は神話の元型になっている。そのあらすじを追ってみよう。
ここでは、はじめから応神天皇の別名として「弓満王」の名をもって話が始まる。その理由は最後に分かる。応神天皇のシナリオはこのようなものだっただろう。
-------------------------------------------------------------------- 弓満王は手にした海図にしたがってカササノミサキ(野間岬(鹿児島県薩摩半島))に到着した。*弓満王(ごんまんわん)は「ここは韓国に向かひ、カササノミサキ(笠沙の御前)を真来通て、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、ここは甚よき国なり。」と、述べて到着した喜びを著わした。(地名は記)
そこは中国に海で面しており、日の出、日の入りとも海上に眺めることができる薩摩半島の岬。「吾田長屋笠狭之岬」(あたのながやのかささのみさき)とも言う。吾田(あた)は、阿多(あた)と同じで、薩摩(さつま)のことである。阿多隼人(あたのはやびと)の根拠地でもあった。(地名は紀)
弓満王が出発したところは長江の下流、三日半あまりの順調な船団航海であった。
長江の河口は九州に向いていて、そのまま川を下るように帆船で楽々やって来ることができる。「韓国」は、別に「膂宍の空国」(そししのむなくに)、また、「膂宍の胸副国」(むなそふこく)と紀に書かれる。出発地が、どこか判明しない。しかし、からくにの読みはハズれないだろう。
(からくにとは、中国。長江が、九州の西岸に向かっていることは次の最近のハップニングで良く分かる。1998年夏、鹿児島県串木野市、熊本県牛深市、福岡県津屋崎町などの海岸には、たくさんの中国のペットボトルやポリ容器が漂着した。この年の集中豪雨による災害で長江に押し流された品々が、ぷかぷかと、日本にまで漂流してきたのだ。鹿児島の西岸には、潮にのって数日で到着する。したがって、九州西岸から向かう国とは、地理的に言っても中国のこと。)
弓満王は、海図にしるされた野間岳(591m)を発見すると、ひとまず上陸。しかし、やはり、心は「*東の青山があるヤマト」に行きたい。「ここはわたしの先祖がつくられた、わたしたちの土地だ」と、言うと東に向かった。しかし、どうして「やまと」へ「やまと」へとかくも向かうのか、・・・それは、やまとの地が四周が青山に囲まれた「聖地」で、神仙でいう「東の青山」とあがめられ、誉め称えられていたからだ。「東によき地あり、・・・言うに邇芸速日ならむ。何ぞ就きて都せざらめや」(紀)そこには、すでに加耶から紀州熊野から上陸した天尊族、邇芸速日命(ニギハヤヒ)(オオナムチと呼ばれていた)、その子、宇摩志麻治命(ウマシマジ)がしっかりと大和に王朝を築いていた。「この国は、もと長狭(ながさ)が住む地(くに)だったが、今は、天尊ニギハヤヒに恭順しています。ともかく勅意のままになされなさい。」と、*塩土の翁こと、事勝国勝長狭(コトカツクニカツナガサ)が進言する。そこで、ニニギノミコトは、「この国は、細い武器が千もあれば、ちょんちょんと征服できるぞ。」(細戈千足国)といって、弩弓をなでた。とりあえず南九州に狗奴国(クナコク)と呼ばれる国をお創りになった。この国は九州で八番目にできた国だった。(それを指して九州王朝と言う。)宮崎神社より南寄りの平和台に皇宮屋(こぐや)と呼ばれる処があったが、そこが九州王朝の宮どころ跡である。
*狗奴国、九州最南端鹿児島から熊本、日向(ひむか)まで勢力を持ち、魏志に女王国にまつろわぬ国として書かれた。狗奴国王は宮崎市(現宮崎神社)に宮をおいて居た。247年に卑弥呼が魏に対狗奴国戦の援軍を要請した事実から狗奴国が実在したことは明らかだ。また、援軍を要請しなければならなかったことはこの戦いが卑弥呼にとって容易なものでなかったことを示す。
*塩土(しおつち)の翁 別名、国主事勝国勝長狭(クニヌシコトカツクニカツナガサ)。瓊々杵命を先導する謎のキャスト。紀(二>九)ではイザナキノミコトの子なりとする。数百年生きている仙人のような謎めいた人物。別に記されるが、猿田彦とも、武内宿禰ともとれる。阿多(薩摩)隼人の武将。
秦氏(はたうじ)は確かに半島からの渡海人であるが、彼らはそもそも流民であった。そして、彼らを迎えた応神天皇は、実は秦の直系王族らしい。
さて、応神天皇は神話の元型になっている。そのあらすじを追ってみよう。
ここでは、はじめから応神天皇の別名として「弓満王」の名をもって話が始まる。その理由は最後に分かる。応神天皇のシナリオはこのようなものだっただろう。
-------------------------------------------------------------------- 弓満王は手にした海図にしたがってカササノミサキ(野間岬(鹿児島県薩摩半島))に到着した。*弓満王(ごんまんわん)は「ここは韓国に向かひ、カササノミサキ(笠沙の御前)を真来通て、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、ここは甚よき国なり。」と、述べて到着した喜びを著わした。(地名は記)
そこは中国に海で面しており、日の出、日の入りとも海上に眺めることができる薩摩半島の岬。「吾田長屋笠狭之岬」(あたのながやのかささのみさき)とも言う。吾田(あた)は、阿多(あた)と同じで、薩摩(さつま)のことである。阿多隼人(あたのはやびと)の根拠地でもあった。(地名は紀)
弓満王が出発したところは長江の下流、三日半あまりの順調な船団航海であった。
長江の河口は九州に向いていて、そのまま川を下るように帆船で楽々やって来ることができる。「韓国」は、別に「膂宍の空国」(そししのむなくに)、また、「膂宍の胸副国」(むなそふこく)と紀に書かれる。出発地が、どこか判明しない。しかし、からくにの読みはハズれないだろう。
(からくにとは、中国。長江が、九州の西岸に向かっていることは次の最近のハップニングで良く分かる。1998年夏、鹿児島県串木野市、熊本県牛深市、福岡県津屋崎町などの海岸には、たくさんの中国のペットボトルやポリ容器が漂着した。この年の集中豪雨による災害で長江に押し流された品々が、ぷかぷかと、日本にまで漂流してきたのだ。鹿児島の西岸には、潮にのって数日で到着する。したがって、九州西岸から向かう国とは、地理的に言っても中国のこと。)
弓満王は、海図にしるされた野間岳(591m)を発見すると、ひとまず上陸。しかし、やはり、心は「*東の青山があるヤマト」に行きたい。「ここはわたしの先祖がつくられた、わたしたちの土地だ」と、言うと東に向かった。しかし、どうして「やまと」へ「やまと」へとかくも向かうのか、・・・それは、やまとの地が四周が青山に囲まれた「聖地」で、神仙でいう「東の青山」とあがめられ、誉め称えられていたからだ。「東によき地あり、・・・言うに邇芸速日ならむ。何ぞ就きて都せざらめや」(紀)そこには、すでに加耶から紀州熊野から上陸した天尊族、邇芸速日命(ニギハヤヒ)(オオナムチと呼ばれていた)、その子、宇摩志麻治命(ウマシマジ)がしっかりと大和に王朝を築いていた。「この国は、もと長狭(ながさ)が住む地(くに)だったが、今は、天尊ニギハヤヒに恭順しています。ともかく勅意のままになされなさい。」と、*塩土の翁こと、事勝国勝長狭(コトカツクニカツナガサ)が進言する。そこで、ニニギノミコトは、「この国は、細い武器が千もあれば、ちょんちょんと征服できるぞ。」(細戈千足国)といって、弩弓をなでた。とりあえず南九州に狗奴国(クナコク)と呼ばれる国をお創りになった。この国は九州で八番目にできた国だった。(それを指して九州王朝と言う。)宮崎神社より南寄りの平和台に皇宮屋(こぐや)と呼ばれる処があったが、そこが九州王朝の宮どころ跡である。
*狗奴国、九州最南端鹿児島から熊本、日向(ひむか)まで勢力を持ち、魏志に女王国にまつろわぬ国として書かれた。狗奴国王は宮崎市(現宮崎神社)に宮をおいて居た。247年に卑弥呼が魏に対狗奴国戦の援軍を要請した事実から狗奴国が実在したことは明らかだ。また、援軍を要請しなければならなかったことはこの戦いが卑弥呼にとって容易なものでなかったことを示す。
*塩土(しおつち)の翁 別名、国主事勝国勝長狭(クニヌシコトカツクニカツナガサ)。瓊々杵命を先導する謎のキャスト。紀(二>九)ではイザナキノミコトの子なりとする。数百年生きている仙人のような謎めいた人物。別に記されるが、猿田彦とも、武内宿禰ともとれる。阿多(薩摩)隼人の武将。