○弓月の民、ホータンから大移動
ホータンから弓月の民がどのようにして、日本に移住してきたのか。これから、探ってみよう。
日本書紀巻(やまとふみのまき)には次のような記述が残されている。
『この年、弓月君、百済より来帰り。因りて奏して曰さく、「臣(やつかれ)、己が国の人夫(たみ)百二十県(こほり)を領(ひき)いて帰化(まう)く。然れども新羅人(しらぎびと)の拒くに因りて、皆加羅国に留まれり』とまうす。(書紀巻十)
この年とは応神天皇14年とされる。(AD284)弓月君は「臣と我が国の民を120県(あがた)から率いて来ましたが、半島で新羅人に妨害されて皆まだ加羅(半島最南部)に留まっています。」と天皇に奏上した。
「ここに、葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)を遣わして、弓月の人夫を加羅に召す。然れども、三年経るまでに襲津彦来ず。」
天皇は葛城氏を派遣した。鶏林(新羅国)で足留めにされている弓月君の集団を加羅に逃がすためである。しかし、救援はなかなか成功せず、2年余が過ぎてしまった。
16年の8月になって、
『詔(みことのり)して、曰はく、「襲津彦(そつひこ)、久に還(かえりもうで)こず。必ず新羅の拒(ふせ)くに由りて滞(とどこほ)れるならむ。汝等、急やかに往りて新羅を撃ちて、その道を披け」とのたまう。』
葛城襲津彦がなかなか帰ってこない。新羅が拒んでいるので成功しない。そこで、応神天皇(ほむだわけのみこと)はさらに、臣下2名に精鋭の兵をつけて加羅に派遣した。境に達した倭軍を見て新羅王はようやく畏れて事を悔いた。ようやく、弓月の民を率いて葛城襲津彦(そつひこ)は大和に返ってきた。日本を目の前にして弓月の民がすべて来朝するのに実に三年を要した・・・と言うのである。
弓月の民が加羅の海辺に日本の船影100余隻を見たとき、胸から吹き上げる熱い涙で、誰もが大きな口を開けてどっと泣き崩れた。数千余人が一度に上げた歓喜は港に響き続け、それは涙が枯れるまで続いた。こうして、数次に分れて、2万余人が目的の地、日本に着いた。
ホータンから弓月の民がどのようにして、日本に移住してきたのか。これから、探ってみよう。
日本書紀巻(やまとふみのまき)には次のような記述が残されている。
『この年、弓月君、百済より来帰り。因りて奏して曰さく、「臣(やつかれ)、己が国の人夫(たみ)百二十県(こほり)を領(ひき)いて帰化(まう)く。然れども新羅人(しらぎびと)の拒くに因りて、皆加羅国に留まれり』とまうす。(書紀巻十)
この年とは応神天皇14年とされる。(AD284)弓月君は「臣と我が国の民を120県(あがた)から率いて来ましたが、半島で新羅人に妨害されて皆まだ加羅(半島最南部)に留まっています。」と天皇に奏上した。
「ここに、葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)を遣わして、弓月の人夫を加羅に召す。然れども、三年経るまでに襲津彦来ず。」
天皇は葛城氏を派遣した。鶏林(新羅国)で足留めにされている弓月君の集団を加羅に逃がすためである。しかし、救援はなかなか成功せず、2年余が過ぎてしまった。
16年の8月になって、
『詔(みことのり)して、曰はく、「襲津彦(そつひこ)、久に還(かえりもうで)こず。必ず新羅の拒(ふせ)くに由りて滞(とどこほ)れるならむ。汝等、急やかに往りて新羅を撃ちて、その道を披け」とのたまう。』
葛城襲津彦がなかなか帰ってこない。新羅が拒んでいるので成功しない。そこで、応神天皇(ほむだわけのみこと)はさらに、臣下2名に精鋭の兵をつけて加羅に派遣した。境に達した倭軍を見て新羅王はようやく畏れて事を悔いた。ようやく、弓月の民を率いて葛城襲津彦(そつひこ)は大和に返ってきた。日本を目の前にして弓月の民がすべて来朝するのに実に三年を要した・・・と言うのである。
弓月の民が加羅の海辺に日本の船影100余隻を見たとき、胸から吹き上げる熱い涙で、誰もが大きな口を開けてどっと泣き崩れた。数千余人が一度に上げた歓喜は港に響き続け、それは涙が枯れるまで続いた。こうして、数次に分れて、2万余人が目的の地、日本に着いた。