○狗奴国の王は誰だったのか?
「・・・その南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に*狗古智卑狗あり。女王に属せず。郡より女王国にいたる万二千里。」(魏志倭人伝)
ここに古智(こち)の名前が出てくる。さて、新撰姓氏録には「己智(こち)。秦太子胡亥之後なり」とある。
胡亥(こがい)は秦の二世皇帝。なんと「狗奴国」の官は=始皇帝の子孫だった。したがって、狗奴国の王、は秦王の姓「」は呉音でユウ、一方「熊」の姓もユウ。どちらもユウさんであるとすると、もう言う必要もない。熊襲とは、「秦」と「隼人」という意味だ。(北京語では、ユン・ジュンと発音する)
秦の王族を恐れたヤマト王ニギハヤヒ(タラシナカツヒコ=仲哀天皇)は大和の地から伊都国に赴いて戦争に本腰を入れはじめた。「熊襲」(クマソ)征討がこれである。ようやく国として統一したところへ、また乱暴な秦の追撃の影がちらついてはおちおちしてられない。ところが大陸の強弓*(弩弓)を持つ隼人の兵は手強く、まるで歯がたたない。隼人の兵を破ることができないどころか、ニギハヤヒは運悪く矢に当たって戦死してしまった。倭王(ニギハヤヒ)、このとき26歳だった。
もはや、軍を立て直すこともできないほどの壊滅だった。逃げ延びるのも容易でない。いままでは、「仕えまする、降参しました」と言えば安堵してきたのに。こんなはずではなかった。早大教授・水野 祐氏は「狗奴国に大和王権が滅亡されてしまった」と、きっぱり見ている。
*弩弓 秦の始皇帝の兵馬俑抗(へいばようこう)から発掘された弓(弩機)は、木の弓で張力を増すために、弓鞘に革ひもを捲き、その上に赤漆がかけてあった。日本で使った弓は、竹に皮ひもを巻いたものだった。この弓を、伊都之竹鞆(いとのたけとも)と伝った。伊都之尾羽張(いとのおはばり)と言うと、中国の刀剣のこと。伊都之竹鞆と伊都尾羽張で、矢と剣がセットになる。この伊都は伊都国の伊都。帯方郡から、魏の使者が駐在していたのが伊都国。(福岡県糸島)中国物品の揚陸後、この地で検品をした。とうぜん伊都国に、この弩弓は集中していた。伊都の・・・といえば中国から運ばれた製品という暗黙の意味だったのだろう。伊都之竹鞆(いとのたけとも)は、紀では稜威之高鞆(いつのたかとも)と記される。稜威(いつ)は伊都(いつ)と同じで、伊都は、伊斗、怡土など、いくつかの文字がある。
「・・・その南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に*狗古智卑狗あり。女王に属せず。郡より女王国にいたる万二千里。」(魏志倭人伝)
ここに古智(こち)の名前が出てくる。さて、新撰姓氏録には「己智(こち)。秦太子胡亥之後なり」とある。
胡亥(こがい)は秦の二世皇帝。なんと「狗奴国」の官は=始皇帝の子孫だった。したがって、狗奴国の王、は秦王の姓「」は呉音でユウ、一方「熊」の姓もユウ。どちらもユウさんであるとすると、もう言う必要もない。熊襲とは、「秦」と「隼人」という意味だ。(北京語では、ユン・ジュンと発音する)
秦の王族を恐れたヤマト王ニギハヤヒ(タラシナカツヒコ=仲哀天皇)は大和の地から伊都国に赴いて戦争に本腰を入れはじめた。「熊襲」(クマソ)征討がこれである。ようやく国として統一したところへ、また乱暴な秦の追撃の影がちらついてはおちおちしてられない。ところが大陸の強弓*(弩弓)を持つ隼人の兵は手強く、まるで歯がたたない。隼人の兵を破ることができないどころか、ニギハヤヒは運悪く矢に当たって戦死してしまった。倭王(ニギハヤヒ)、このとき26歳だった。
もはや、軍を立て直すこともできないほどの壊滅だった。逃げ延びるのも容易でない。いままでは、「仕えまする、降参しました」と言えば安堵してきたのに。こんなはずではなかった。早大教授・水野 祐氏は「狗奴国に大和王権が滅亡されてしまった」と、きっぱり見ている。
*弩弓 秦の始皇帝の兵馬俑抗(へいばようこう)から発掘された弓(弩機)は、木の弓で張力を増すために、弓鞘に革ひもを捲き、その上に赤漆がかけてあった。日本で使った弓は、竹に皮ひもを巻いたものだった。この弓を、伊都之竹鞆(いとのたけとも)と伝った。伊都之尾羽張(いとのおはばり)と言うと、中国の刀剣のこと。伊都之竹鞆と伊都尾羽張で、矢と剣がセットになる。この伊都は伊都国の伊都。帯方郡から、魏の使者が駐在していたのが伊都国。(福岡県糸島)中国物品の揚陸後、この地で検品をした。とうぜん伊都国に、この弩弓は集中していた。伊都の・・・といえば中国から運ばれた製品という暗黙の意味だったのだろう。伊都之竹鞆(いとのたけとも)は、紀では稜威之高鞆(いつのたかとも)と記される。稜威(いつ)は伊都(いつ)と同じで、伊都は、伊斗、怡土など、いくつかの文字がある。