○卑弥呼の母を探る
春秋時代の一国「斉」から、鶏林に進出したあと、北陸沿岸に渡海してきたツヌガアラシト=天日槍(あめのひぼこ)は、ヒミコの母の祖である。
さて、余談になるかもしれないが、この当時の日本では、だいたい普通の大人で妻を四〜五人をもつのが通例で、少ない大人でも二人、三人であった。王ともなると二十人ぐらいとなり、子供の数も数えきれない。スパゲティのような入り組んだ近親婚が多かった。姉妹で一人の夫をもつとか、兄弟姉妹の間で結婚するとか、兄弟姉妹の子と結婚するとか・・・こうした例が多かった。今日のような近親婚をタブーとする意識を取り払わないと、日本の古代について語れないだろう。従って系図などは、二代遡るとすれば、横や、斜め横の線が、ほとんど省略されていることになる。
大和に立ちはだかっていた悪しき神、二人の異腹兄弟とは、兄宇迦斯と弟宇迦斯。この兄弟姉妹の戦闘の舞台は、すべて近江国で決着がつく。国譲り神話のソースは、だんだんと分かりかけてきたのではないだろうか。
春秋時代の一国「斉」から、鶏林に進出したあと、北陸沿岸に渡海してきたツヌガアラシト=天日槍(あめのひぼこ)は、ヒミコの母の祖である。
さて、余談になるかもしれないが、この当時の日本では、だいたい普通の大人で妻を四〜五人をもつのが通例で、少ない大人でも二人、三人であった。王ともなると二十人ぐらいとなり、子供の数も数えきれない。スパゲティのような入り組んだ近親婚が多かった。姉妹で一人の夫をもつとか、兄弟姉妹の間で結婚するとか、兄弟姉妹の子と結婚するとか・・・こうした例が多かった。今日のような近親婚をタブーとする意識を取り払わないと、日本の古代について語れないだろう。従って系図などは、二代遡るとすれば、横や、斜め横の線が、ほとんど省略されていることになる。
大和に立ちはだかっていた悪しき神、二人の異腹兄弟とは、兄宇迦斯と弟宇迦斯。この兄弟姉妹の戦闘の舞台は、すべて近江国で決着がつく。国譲り神話のソースは、だんだんと分かりかけてきたのではないだろうか。
1. 葦原色許男神(AshiharasikowoーNoーKami)
2. 八千矛神(Yatihoko−No−Kami)*もとはスサノヲの神名
3. 宇都志国玉神(Utsusikunitama−No−Kami)もとはスサノヲの神名
4. 大国主命(Ookuninusi−No−Mikoto)*王に近い身分の一般名詞。オオナムチも身分を表す名詞。スサノヲだけの固有名詞ではなかった。
5. 瓊々杵命(NinigiーNoーMikoto)応神天皇のこと。
6. 神倭伊波礼毘古命(Kamuーyamatoーiwarehikoーnoーmikoto)神武天皇は漢風の諡号。ハツクニシラススメラミコトの称号がある。記紀の伝説名。幼名、狭野尊(さののみこと)サ(Xa)という地名から来たという意味。
7. 崇仁天皇 6と同じ、ハツクニシラススメラミコトの称号がある。記紀の伝説名。
8. 応神天皇(OojinーTenno)史実上、実在を確認できる。
9. 誉田別尊(Homutawake−No−Mikoto)応神天皇の別名。
以上が、全部同一人物。いわゆる全国神社の祭神のデータによって評決できる。3、4、5はスサノヲから引き継がれた名前。6は神武天皇。
さて、卑弥呼は、オオミワ系の軍勢と弓満王の兵を一つにして、海外に目を向けさた。内戦が終結した”もののふ”を束ねて、自ら男装して朝鮮に遠征、新羅金城を攻めて朝鮮王に大和に長く仕えること誓わせると(233年)、直ちに帰還して、男子を出産した。そして、親魏倭王金印はこの年に拝受され、帯方太守に任じられる。魏志倭人伝では、「国々有市 交易有無 使大倭監之」とあり、市の交易は、大倭の官吏に監視を命じていた。女王国の官吏官は、大倭(大和)から派遣されていたのである。つまり、卑弥呼は大和を、筑紫で政治支配していた。それは、たまさか筑紫に遷宮(せんぐう)していたにすぎないと考えれば、しごく当然のことである。
邪馬台国(筑紫)と大倭(大和)は、卑弥呼にとっては、一つであった。
卑弥呼は弓満王から、「たった一度の契りで、ほんとうにわたしのこどもか?国つ神の子ではないか?」 と疑われてすっかり頭に来た。せっかく建てた産殿に火をつけて燃やしてしまった。産殿は海辺に建てられ、「八尋殿」と呼ばれた。無戸室(うつむろ)とも言われ、出入り口がない。「これはあなたの子。まことにあなたの子であればまちがいなく安産となりましょう。もし国つ神の子であれば、やすやすとと生むことは叶わないでしょう。」と、火焔のなかで出産した。
弓が疑うのもムリはない。前の夫、ヒギハヤヒの子ではないか?と、言うわけだが、まさか武内宿禰の子ではないかとまでは、そのとき考えなかった。卑弥呼の怒りは、その後も修まらず、弓満と夜床を供にしようとしない。逆夜枯れにあった憐れな弓満は、孤独な夜を憂いて歌った。
「沖つ藻は 辺に寄れども さ寝床も 与わぬかもよ 浜つ千鳥よ」・・・と。
大和は卑弥呼を裏切り者としか思わない。卑弥呼に弓満王を殺せと、兄弟王は重ねて言ってくる。いったいあなたは兄弟と、敵であった夫とどちらが大切なのか・・・というわけだ。さて、卑弥呼は筑紫にもう一つの大三輪の社(やしろ)を建てた。どちらも正当な継承を主張する。大三輪の御魂に忠誠を誓う物部氏は真っ二つに分断されてしまった。そこで、卑弥呼は敢然と言い放った。「豊葦原中国は、是我が児の王たるべき地(くに)なり」と。正后の兄弟王を「ちはやぶる悪しき神ども」として、大和攻略を敢行する。日向、美々津港には慌ただしい。美々川の河口には、数百隻の大御軍船(みいくさぶね)が準備された。船出に適したなぎをまっていたがなかなかその日がこない。八月のある夜、星もまだ見える明け方に急に海がなぎになった。「起きよ、起きよ」の知らせに、ぞくぞくと兵は乗船を開始した。村人は用意していた米粉のあずきを、皮とあんを包む暇もなくやむなくいっしょにつきこんで間に合わせた。これが、美々津の「つき入れもち」とか、「お船出しだんご」という名物のはじまりである。美々津港には、八重(はえ)と黒瀬(くろせ)という小さな岩礁があるが、軍船(いくさぶね)はこの二つの岩の間を通って沖へでた。伝承では七つばえ島、一つ神島という。船団は、一路、宇佐に向かった。この二つの岩礁の間を通って弓満王は出ていったきり、二度と再び日向の地には戻ることはなかった。「この間を通って、日向の大王(おおきみ)はふたたび帰らなかった」という故事が受け継がれたのだろう、今もこの地の漁師はこの八重と黒瀬の間を決して通らない。
2. 八千矛神(Yatihoko−No−Kami)*もとはスサノヲの神名
3. 宇都志国玉神(Utsusikunitama−No−Kami)もとはスサノヲの神名
4. 大国主命(Ookuninusi−No−Mikoto)*王に近い身分の一般名詞。オオナムチも身分を表す名詞。スサノヲだけの固有名詞ではなかった。
5. 瓊々杵命(NinigiーNoーMikoto)応神天皇のこと。
6. 神倭伊波礼毘古命(Kamuーyamatoーiwarehikoーnoーmikoto)神武天皇は漢風の諡号。ハツクニシラススメラミコトの称号がある。記紀の伝説名。幼名、狭野尊(さののみこと)サ(Xa)という地名から来たという意味。
7. 崇仁天皇 6と同じ、ハツクニシラススメラミコトの称号がある。記紀の伝説名。
8. 応神天皇(OojinーTenno)史実上、実在を確認できる。
9. 誉田別尊(Homutawake−No−Mikoto)応神天皇の別名。
以上が、全部同一人物。いわゆる全国神社の祭神のデータによって評決できる。3、4、5はスサノヲから引き継がれた名前。6は神武天皇。
さて、卑弥呼は、オオミワ系の軍勢と弓満王の兵を一つにして、海外に目を向けさた。内戦が終結した”もののふ”を束ねて、自ら男装して朝鮮に遠征、新羅金城を攻めて朝鮮王に大和に長く仕えること誓わせると(233年)、直ちに帰還して、男子を出産した。そして、親魏倭王金印はこの年に拝受され、帯方太守に任じられる。魏志倭人伝では、「国々有市 交易有無 使大倭監之」とあり、市の交易は、大倭の官吏に監視を命じていた。女王国の官吏官は、大倭(大和)から派遣されていたのである。つまり、卑弥呼は大和を、筑紫で政治支配していた。それは、たまさか筑紫に遷宮(せんぐう)していたにすぎないと考えれば、しごく当然のことである。
邪馬台国(筑紫)と大倭(大和)は、卑弥呼にとっては、一つであった。
卑弥呼は弓満王から、「たった一度の契りで、ほんとうにわたしのこどもか?国つ神の子ではないか?」 と疑われてすっかり頭に来た。せっかく建てた産殿に火をつけて燃やしてしまった。産殿は海辺に建てられ、「八尋殿」と呼ばれた。無戸室(うつむろ)とも言われ、出入り口がない。「これはあなたの子。まことにあなたの子であればまちがいなく安産となりましょう。もし国つ神の子であれば、やすやすとと生むことは叶わないでしょう。」と、火焔のなかで出産した。
弓が疑うのもムリはない。前の夫、ヒギハヤヒの子ではないか?と、言うわけだが、まさか武内宿禰の子ではないかとまでは、そのとき考えなかった。卑弥呼の怒りは、その後も修まらず、弓満と夜床を供にしようとしない。逆夜枯れにあった憐れな弓満は、孤独な夜を憂いて歌った。
「沖つ藻は 辺に寄れども さ寝床も 与わぬかもよ 浜つ千鳥よ」・・・と。
大和は卑弥呼を裏切り者としか思わない。卑弥呼に弓満王を殺せと、兄弟王は重ねて言ってくる。いったいあなたは兄弟と、敵であった夫とどちらが大切なのか・・・というわけだ。さて、卑弥呼は筑紫にもう一つの大三輪の社(やしろ)を建てた。どちらも正当な継承を主張する。大三輪の御魂に忠誠を誓う物部氏は真っ二つに分断されてしまった。そこで、卑弥呼は敢然と言い放った。「豊葦原中国は、是我が児の王たるべき地(くに)なり」と。正后の兄弟王を「ちはやぶる悪しき神ども」として、大和攻略を敢行する。日向、美々津港には慌ただしい。美々川の河口には、数百隻の大御軍船(みいくさぶね)が準備された。船出に適したなぎをまっていたがなかなかその日がこない。八月のある夜、星もまだ見える明け方に急に海がなぎになった。「起きよ、起きよ」の知らせに、ぞくぞくと兵は乗船を開始した。村人は用意していた米粉のあずきを、皮とあんを包む暇もなくやむなくいっしょにつきこんで間に合わせた。これが、美々津の「つき入れもち」とか、「お船出しだんご」という名物のはじまりである。美々津港には、八重(はえ)と黒瀬(くろせ)という小さな岩礁があるが、軍船(いくさぶね)はこの二つの岩の間を通って沖へでた。伝承では七つばえ島、一つ神島という。船団は、一路、宇佐に向かった。この二つの岩礁の間を通って弓満王は出ていったきり、二度と再び日向の地には戻ることはなかった。「この間を通って、日向の大王(おおきみ)はふたたび帰らなかった」という故事が受け継がれたのだろう、今もこの地の漁師はこの八重と黒瀬の間を決して通らない。