○臺与は卑弥呼の妹だった!
弓満王、悲願の大和に入りを果たし大王となった。政治的実権をもつ大王は、記紀では天皇より下の皇太子と定義しているので、あくまでも軍事・外交・財政など実権をもっているのは皇太子となる。そして、スメラミコト=天の日嗣を魏志は倭王と書いてしまう。これは、実権者と皇帝が分離していない中国にあっては当然の解釈であろう。しかし、日本では、倭王にあたるのは皇太子ということになる。魏志によれば、13才で倭王に立った「臺与」は卑弥呼が微行に入ったあとのスメラミコト=ヒルメ(日の巫女)であった。伊勢の外宮の豊受大神として祀られたのが「臺与」である。この豊受大神は丹波の真名井から呼び寄せられて伊勢に鎮座した。
ヒミコと同様に、トヨもまた蛇の霊力をもってお告げをした。ヒミコの征討軍が鉾や剣、鎧から衣、船まで、なにもかも朱色にしたのは、ワカヒルメ=丹生都比売大神(ニユツヒメ)が、「戦勝」の占い(託宣)をしたからだった。(物部-もののべの皇軍は軍装はどこもかしこも真っ赤(朱)だった・・・)
魏志で書かれたトヨとは、丹生都比売大神、こと稚日女尊(ワカヒルメノミコト)であった。
このワカヒルメは、全国稲荷神社で祭る「ウカノミタマ大神」と同一。これが、稲荷塗の朱色や、朱の鳥居の起源である。そして、この赤色はやはり、丹から来ている。丹の原料、辰砂を始めに列島で探索したのは、前200年に日本に来た徐福の一団。丹生(にう)の集団は、食物の大食都比売神(おおげつひめ)と結び付いている。なんと、和歌山の丹生都比売大神の丹生都比売神社の第三殿は大食都比売神(おおげつひめかみ)である。「け」という読みは、食(稲)のことである。気比神社の「け」は、もとは食を意味した「け」である。「ウケ」とは、稲の意味であった。また、ウケは書紀の「保食神」(うけもちのかみ)のウケである。また、丹後風土記では「豊宇賀能売」(とようかのめ)と書かれる。稲荷神社の稲荷で、「ウカモ」と呼ばれ、稲をになう、という意味である。稲荷は豊穣神であること、同時に渡来系丹生(にう)の奉じる蛇神系の水神であった。ウカノミタマ大神は中世になると仏教に習合して、宇賀神という福神となった。宇賀弁才天とも呼ばれ、老人の顔をした人頭蛇体で、白蛇であった。稲荷神社系では、弁才天から、さらに、ダキニ天、大聖天、愛染明王にも変貌している。豊饒神は、さまざまに変容をしているが、食(稲)と蛇が同一の根っこのように結合している。古代では、神は蛇体形でこの世に顕れると信じられていたのだろう。豊受を”トヨウケ”を”トヨウカ”とも呼ぶ。「ウカ」は、海蛇の意味である。ウカノミタマは、「ウカ」がキーワードで、紀州の田辺では、海蛇をウカという。(渋沢啓三・日本魚名集覧)、南方熊楠(みなかたくまぐす)は、紀州方言では海蛇を「ウガ」と言うと書いている。ワカヒルメは、海蛇(ウカ)ノミタマであり、稲のウケモチノカミでもあった。スサノヲの渡海は、日本に稲作をもたらし、豊かな食生活をもたらしたのではないだろうか。
弓満王、悲願の大和に入りを果たし大王となった。政治的実権をもつ大王は、記紀では天皇より下の皇太子と定義しているので、あくまでも軍事・外交・財政など実権をもっているのは皇太子となる。そして、スメラミコト=天の日嗣を魏志は倭王と書いてしまう。これは、実権者と皇帝が分離していない中国にあっては当然の解釈であろう。しかし、日本では、倭王にあたるのは皇太子ということになる。魏志によれば、13才で倭王に立った「臺与」は卑弥呼が微行に入ったあとのスメラミコト=ヒルメ(日の巫女)であった。伊勢の外宮の豊受大神として祀られたのが「臺与」である。この豊受大神は丹波の真名井から呼び寄せられて伊勢に鎮座した。
ヒミコと同様に、トヨもまた蛇の霊力をもってお告げをした。ヒミコの征討軍が鉾や剣、鎧から衣、船まで、なにもかも朱色にしたのは、ワカヒルメ=丹生都比売大神(ニユツヒメ)が、「戦勝」の占い(託宣)をしたからだった。(物部-もののべの皇軍は軍装はどこもかしこも真っ赤(朱)だった・・・)
魏志で書かれたトヨとは、丹生都比売大神、こと稚日女尊(ワカヒルメノミコト)であった。
このワカヒルメは、全国稲荷神社で祭る「ウカノミタマ大神」と同一。これが、稲荷塗の朱色や、朱の鳥居の起源である。そして、この赤色はやはり、丹から来ている。丹の原料、辰砂を始めに列島で探索したのは、前200年に日本に来た徐福の一団。丹生(にう)の集団は、食物の大食都比売神(おおげつひめ)と結び付いている。なんと、和歌山の丹生都比売大神の丹生都比売神社の第三殿は大食都比売神(おおげつひめかみ)である。「け」という読みは、食(稲)のことである。気比神社の「け」は、もとは食を意味した「け」である。「ウケ」とは、稲の意味であった。また、ウケは書紀の「保食神」(うけもちのかみ)のウケである。また、丹後風土記では「豊宇賀能売」(とようかのめ)と書かれる。稲荷神社の稲荷で、「ウカモ」と呼ばれ、稲をになう、という意味である。稲荷は豊穣神であること、同時に渡来系丹生(にう)の奉じる蛇神系の水神であった。ウカノミタマ大神は中世になると仏教に習合して、宇賀神という福神となった。宇賀弁才天とも呼ばれ、老人の顔をした人頭蛇体で、白蛇であった。稲荷神社系では、弁才天から、さらに、ダキニ天、大聖天、愛染明王にも変貌している。豊饒神は、さまざまに変容をしているが、食(稲)と蛇が同一の根っこのように結合している。古代では、神は蛇体形でこの世に顕れると信じられていたのだろう。豊受を”トヨウケ”を”トヨウカ”とも呼ぶ。「ウカ」は、海蛇の意味である。ウカノミタマは、「ウカ」がキーワードで、紀州の田辺では、海蛇をウカという。(渋沢啓三・日本魚名集覧)、南方熊楠(みなかたくまぐす)は、紀州方言では海蛇を「ウガ」と言うと書いている。ワカヒルメは、海蛇(ウカ)ノミタマであり、稲のウケモチノカミでもあった。スサノヲの渡海は、日本に稲作をもたらし、豊かな食生活をもたらしたのではないだろうか。
「保食神」(うけもちのかみ)は、 「大宜津比売神」(おおげつひめのかみ) 「大気津比売神」(おおげつひめのかみ) 「大御食津神」(おおみけつのかみ) 「御膳都神」(みけつかみ)とも別名がある。 これらは、皆、稚日女尊-ワカヒルメ=丹生都比売のことである。