○シェバと秦氏とへび
シェバが蚕の意味のヘブル語であることは説明してきた。シバの女王のシバだ。(シバの女王は紀元前1000年ごろ、ソロモン王の智恵をためそうと多くの贈り物を携えてエルサレムへやってきた美しい女王。)ところで、「シバカミ」と音読される神社がある。寝屋川市にある柴上神社である。 京都の太秦のほかに太秦(うずまさ)の地名があるのは大阪府寝屋川市をおいてほかにない。かつて、茨田郡、秦村・太秦村と呼ばれていた。付近の史跡に茨田堤(まんだのつつみ)がある。淀川の左岸づたいに、仁徳天皇11年(324年頃)に築かれた堤防で、日本で最初の大土木工事とされる。古事記では茨田連(まむたのむらじ)が秦人を使って造堤したと書かれる。現在の枚方市から大阪市福島区の野田付近までの大堤だ。この堤の建設に集まった秦人が、寝屋川の太秦に定住したのが太秦村の始めである。 茨田は「万牟多」と表記される。姓(かばね)は天皇が授けるもので、姓をもつ氏は、まだまだ少なかった。しかし、「まむた」は、渡海人のもともとの姓ではない。茨田連(まむたむらじ)もまた、渡海人集団だった。呉国の王、「孫晧」の末裔で、茨田勝のもともとの姓は「孫」さん。呉国から遣ってきた氏族だった。堤根神社という神社が延喜式神名帳にあった。「彦八井耳命」という、茨田氏の祖神が祀られていた。 さて、孫一族は秦人を役(えだ)ちて、この大堤(おおつつみ)を築いた。淀川が氾濫すると、茨田池(まんだのいけ)に淀川の水が押し寄せて水没する。その被害の有り様は異様である。池の水表は夥しい虫で覆いつくされ、やがて、水は腐敗で臭くなり、藍色に変色した。虫とは蚕のことで、この一帯は養蚕地だった。水害の惨状は、「蚕の大量死」だったのだ。(書記の皇極二年条643年) 治水事業は、中国では皇帝の徳業だったが、仁徳13年に、茨田屯倉(まんだのみやけ)が置かれている。いわば、この治水事業は国の直轄事業となった。 寝屋川市の太秦は町名で、近隣には太秦桜が丘、太秦中町、太秦緑が丘、太秦高塚町(ここには高塚古墳がある)といくつかに町名に分岐している。その太秦のとなりに秦町があるほか、驚くことに川勝町(秦河勝の河勝が川に変じたのだろう)という町があり、ここには、なんと秦河勝の墓(寝屋川市・史跡文化財紹介)がある。これだけでも一帯が秦氏の拠点であったことを伺わせる。奇妙な柴上神社は、川勝町のとなりの八幡台にある。