徳川吉宗の時代に覚深(かくじん)は、慈眼大師・天海がなにゆえに日光東照宮に摩多羅神を奉安したのだろうか・・・と、いう疑問を持った。(ということは、もう徳川八代目(1716〜1745)、(家康から100年後)、すでに、東照大権現と摩多羅神のことは誰に聞いても分からなくなっていた・・・・)
この日光東照宮の摩多羅神の素性が理解できなかった彼は、それを仏典のなかに、なんとか見いだそうと頑張った。彼は、*「大日経疏」第十一巻のなかに「摩怛哩神」(まだり)という仏名を、ついに見つけた。「(まだら)は(まだり)に比定できる!」さて、摩怛哩(まだり)神は焔摩大王の姉妹で、「七母天」である。梵語で摩怛哩とは母を意味する。摩怛哩とは、チベットでいう荼枳尼天(ダーキニ)のことである。弘法大師が天照大神からの相承の印に、荼枳尼天(だきにてん)の明咒(みょうじゅ)を加えて一つとしたので、ダーキニ天は天照大神の変化身とみなされるようになった。天皇が代替わりする儀式(即位灌頂)において、大日如来の智拳印とともに、荼枳尼天(だきにてん)の明咒が唱えられ、明治天皇の父孝明天皇まで、この密教系の即位灌頂は続けられていた。なんと、摩多羅神と、荼枳尼天が同一視され、また、荼枳尼天と天照大神と大日如来が同体だという信仰は中世の密教のなかではあたりまえだった。ダーキニは、ヒンデゥー教のシヴァの妃カーリーの配下の鬼女とされ、餓鬼形の姿をとる。仏教では、毘盧遮那(びるしゃなぶつ)に降伏してからは、仏教の守護神となり、人間の肉を喰うかわりに、魂魄の穢れである煩悩を喰うようになった。 ダーキニは、仏教に取り入られると、焔摩天の眷属(一族)となった。焔摩天の使者として娑婆(しゃば)に放たれ、寿命が尽きようとしている人間に6ヶ月の間、とり憑いて全身をその舌と牙でしゃぶり尽くすという吸血鬼なのである。焔摩天は、中国では(泰山父君)であり、その拳族である泰山娘娘は、観音と言われるが、系統からはヤマの使いとしてのダーキニとも比定できる。荼枳尼天は、胎蔵界マンダラでは外金剛部院、南方に三人描かれる。日本に根を下ろした鬼女・荼枳尼天は、稲荷神と習合したり、天照大神と習合した特異な鬼神である。 覚深(かくじん)はなにはともあれ、「摩多羅神は天竺(てんじく)の摩怛哩神(まだり)であるに異ならない。」・・・として、1738年、彼は、「摩多羅神私」なる書を書いた。仏典のなかから、もっとも発音の近い摩怛哩(まだり)を抽出したということだけではなかった。それを説明するには、ダーキニと摩多羅神がもつ共通した背景を説明しなければならない。 糸をほどいていくのは、ダーキニ(摩怛哩)が、真言密教の一派、立川流の本尊となっていたことである。この中世のカルトはセックスを交えた秘密灌頂儀礼、髑髏(どくろ)に男女の淫水(赤白二水、和合水)を用いる秘儀などを伴っていた。他方、玄旨帰命壇は、この立川流と気脈を同じくする叡山の秘密口伝だった。台密の玄旨壇(げんしだん)が、この摩多羅三尊を本尊としていたのである。 中央の摩多羅神の前で踊る二人の童子は煩悩の象徴であり、それが、そのまま往生、極楽であるとする。男女和合による妙成就、すなわち、究極の本覚思想(煩悩即菩提、即身成仏)である。 玄旨帰命壇は平安末期には一部が成立し、鎌倉から室町にかけて最も盛んだった。なぜ、摩多羅神が、ダーキニと同一視されたのかは押して知るべしだろう。覚深は、ダーキニと摩多羅神を同体とみたのだ。今も、叡山では、摩多羅神は「恐ろしい神さん」であると伝えられている。 障礙神は、衆俗では、「そまつにすればバチがあたる」と信じられている。なにはともあれ、摩多羅神は玄旨壇に祀られてから秘密性を帯び、結果として摩怛哩神(まだり)に変貌した。 *立川流:武蔵国立川の陰陽師・見蓮(けんれん)が、広めたのでこの名が付けられた。真言密教の一派。平安後期の仁寛(後に蓮念)を祖とし、一四世紀に後醍醐天皇に信任されていた僧正文観(1278ー1357)により大成され中世に広まったとされる・・・が、異端のレッテルを文観一人に押し付けたとも言われる。密教では重要な経典、「理趣経」には、「性は清浄であり」「愛の行為はそのまま菩薩の境地である」と書かれている。これは、タントラ密教のカテゴリーに入る思想である。チベットでの後期密教は、生理的なヨーガにプロシードしていた。そのなかで、性的な秘密技法も生まれてきた。チベットでは、ダーキニにみたてられるカンドゥマと呼ばれる美しいパートナーと結合して、ルン(生体エネルギー)を使って、清浄な境地に直ちに降り立つ。こうした「ツア・ルン」の修行は、長いあいだ女性エネルギーに集中し、シャクティ・パワーを借りて行う。行者には、射精は許されない。「ツア・ルン」の修行者は、今もチベットにいて、人々の尊敬を受けている。阿闍梨が若い巫女を伴うだけで破戒とする仏教宗派からは、左道密教として排斥された。高野山はチベットのゲルク派と同じように、厳しくこれを戒めた。