ホムダワケ=ニニギノミコト=応神天皇は軽島の明宮(あけのみや)に坐したとされる。奈良の高市郡(たけちぐん)。現在の、橿原神宮、高松塚古墳や飛鳥寺などを含む周辺。軽島の明宮は、日向から東征し、宮を橿原宮(かしはらのみや)とした神武天皇と同一であろう。畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)。そこに、国の中心と定めた。現、橿原神宮の付近。傍証として挙げられるのは、近辺に九州地名があることだろう。橿原神宮南方500mに、橿原市久米町がある。”くめ”とは、言わずと知れた九州の隼人(はやびと)の氏族名である。久米町の旧称は来米邑(くめむら)、大久米命(久米氏の祖先)の屋敷があったことに由来する。功あった大久米命(おおくめのみこと)への恩賞として与えられた。推測するに、宮に最も近いところにあった。日向の王に従軍した九州人が大和に入ったのはなんであれ、一回の出来事である。久米の地名があることの意味は大きい。
七世紀のころ高市郡には、漢氏(あやうじ)が人口の8〜9割も住んでいたと言われる。九州薩摩に上陸した応神は中国からの渡海である。九州から多くの豪族を周辺に住まわせたこと。また、漢氏(あやうじ)は、応神期に秦氏と同時期に渡海してきた集団であること。漢氏が、その末裔とすれば、漢氏が騎馬民族とは考えられない。応神天皇が宮をそこに置いていたので、九州からの東征勝ち組の隼人や、中国の呉からの渡海人のほうが多かっただろう。(後節)
しかし、不思議なことに出雲系豪族の物部氏は、ほとんど新王朝でも重用されている。天皇は天つ神の御子であるが地祇(くにつかみ)の神々も奉じられてきた。奈良=大和では地祇系の社が古くから圧倒しており、アマテラスを祀る社は見当たらない。そこで、倭国の女王共立とは、和合であったことを思い出してほしい。
そもそも、前に来た天つ神と、後から来た天つ神が、結婚によって両立していたのである。出雲系の豪族はこぞって比売を天皇にさしだして、安泰を図ったのであろう。日本神話は、くり返しそのことを述べているのに誰も、そこに気がつかない。それは、紀の異名をもってする、繰り返しの系譜に迷わされるからである。
秦一族を朝鮮に救出にいった*葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)は武内宿禰の息子とされる。葛城氏は物部氏とともに、出雲系の氏族であると言われてきた。葛城氏は地祇に仕えていた氏族と見られていたからである。葛城氏は、天つ神の御子ホムダワケの命令にしっかりと仕えている。天皇の外姻としてその後も数代の天皇に息女が聚ついでいる。この襲津彦の娘である石之日売命(いわのひめのみこと)は*仁徳天皇の后になっている。葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)の系統は、後の蘇我であると言われている。ところが、この襲津彦が、阿多隼人であることに気付いた。やはり、ニニギ(応神)は、やはりスサノヲの三輪王朝を転覆させたと見たほうが正しいだろう。九州から来た隼人系豪族が大和の支配勢力となった。九州人が大和の地を占領したしたのだという考え方が、時とともに濃厚になってきた。
七世紀のころ高市郡には、漢氏(あやうじ)が人口の8〜9割も住んでいたと言われる。九州薩摩に上陸した応神は中国からの渡海である。九州から多くの豪族を周辺に住まわせたこと。また、漢氏(あやうじ)は、応神期に秦氏と同時期に渡海してきた集団であること。漢氏が、その末裔とすれば、漢氏が騎馬民族とは考えられない。応神天皇が宮をそこに置いていたので、九州からの東征勝ち組の隼人や、中国の呉からの渡海人のほうが多かっただろう。(後節)
しかし、不思議なことに出雲系豪族の物部氏は、ほとんど新王朝でも重用されている。天皇は天つ神の御子であるが地祇(くにつかみ)の神々も奉じられてきた。奈良=大和では地祇系の社が古くから圧倒しており、アマテラスを祀る社は見当たらない。そこで、倭国の女王共立とは、和合であったことを思い出してほしい。
そもそも、前に来た天つ神と、後から来た天つ神が、結婚によって両立していたのである。出雲系の豪族はこぞって比売を天皇にさしだして、安泰を図ったのであろう。日本神話は、くり返しそのことを述べているのに誰も、そこに気がつかない。それは、紀の異名をもってする、繰り返しの系譜に迷わされるからである。
秦一族を朝鮮に救出にいった*葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)は武内宿禰の息子とされる。葛城氏は物部氏とともに、出雲系の氏族であると言われてきた。葛城氏は地祇に仕えていた氏族と見られていたからである。葛城氏は、天つ神の御子ホムダワケの命令にしっかりと仕えている。天皇の外姻としてその後も数代の天皇に息女が聚ついでいる。この襲津彦の娘である石之日売命(いわのひめのみこと)は*仁徳天皇の后になっている。葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)の系統は、後の蘇我であると言われている。ところが、この襲津彦が、阿多隼人であることに気付いた。やはり、ニニギ(応神)は、やはりスサノヲの三輪王朝を転覆させたと見たほうが正しいだろう。九州から来た隼人系豪族が大和の支配勢力となった。九州人が大和の地を占領したしたのだという考え方が、時とともに濃厚になってきた。
'>