稲荷神には大別して2系統あり、片方は伏見稲荷大社、豊川稲荷などに祀られる稲荷神(豊川稲荷、篠村八幡宮、祐徳稲荷神社等)。もう一つは狐神として祀られ庶民の間から派生した稲荷神である。大日本史等の歴史書や稲荷信仰事典によるとイナ-ナリの神を祀る三神社(総本山の伏見稲荷大社、三大稲荷中最大の規模を持つとされる豊川稲荷に加えて祐徳稲荷神社)を日本三大稲荷としている。主に伏見稲荷大社と豊川稲荷に関しては、ほぼ一定しているが、諸説として祐徳稲荷神社が欠けている場合や伏見稲荷大社、豊川稲荷さえも含まない場合がある。また笠間稲荷神社、最上稲荷が三大稲荷と言われだしたのは少なからず明治初期以降である。以下に、日本三大稲荷とされている寺社の一部と、各寺社が他の2つを何としているか挙げる(「不明」は他の2つの名を挙げていないもの)。
豊川稲荷は千手観音を本尊とするお寺で、豊川稲荷は通称であり、正式には豊川閣妙厳寺、だきにてん。仏教系。
祐徳稲荷神社は、貞享4年(1687年)肥前鹿島藩主鍋島直朝公の夫人花山院萬子媛が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請された稲荷神社で、衣食住の守護神として国民の間に篤く信仰されております。日本三大稲荷の一つに数えられ商売繁昌、家運繁栄、大漁満足、交通安全等種々の祈願が絶えず、参拝者は年間300万人に達しています。御本殿、御神楽殿、樓門等総漆塗極彩色の宏壮華麗な偉容は、鎮西日光と称され、観光ルートの上にも一異彩を放っています。
笠間稲荷神社のご祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、正一位という最高の位をもつ神様です。日本三大稲荷のひとつである当社の御創建は、社伝によれば第36代孝徳天皇の御代、白雉(はくち)2年(651年)とされ、1350余年の歴史を有する由緒ある神社です。奈良時代の和銅6年(713年)に、元明天皇の詔によって編纂が命じられました「風土記」のうちの「常陸国風土記」には、「新治の郡より東五十里に笠間の村あり」と記されていますが、その頃には笠間のこの地で「古事記」や「日本書紀」に描かれています宇迦之御魂神への信仰が深く根ざしていたと考えられます。 食物の神、農業の神さまとして崇敬されていました笠間稲荷大神さまは、商工業が盛んになるにつれて殖産興業の神さまとしての信仰も広まり、近世になると農家ばかりでなく商家、町屋、武士、大名にいたるまでご分霊をいただき、屋敷神や家庭神、地域神としてお祀りされるようになりました。 とりわけ江戸時代には歴代笠間藩主の崇敬が篤く、初代藩主の松平康重公は丹波篠山に移ってからも笠間稲荷大神さまのご分霊をお迎えし、それが今の王子山稲荷となっています。第三代藩主の松平(戸田)康長公は信濃国松本へ転封した際に城内にご分霊をお祀りし、末永く崇敬しました。第四代藩主の永井直勝公は古河藩へ移動後もご分霊をお祀りし、その領民たちが奉納した神馬像が現在の楼門にある神馬像だと言われています。第五代藩主が忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩公の曾祖父、浅野長重公で、第六代藩主が祖父、浅野長直公です。大石内蔵助も笠間藩から笠間稲荷大神さまのご分霊をいただいて邸内にお祀りし、大石稲荷神社となっています。浅野家、大石家とも笠間から赤穂へと移っても篤く崇敬し続けました。第十三代藩主の井上正賢公は、夢に笠間稲荷大神が現れたことにより、いっそう深く霊験を感じて笠間稲荷神社を歴代藩主の祈願所として定めて社地社殿の拡張に努めました。第十四代藩主の牧野貞道公は、先例にならって笠間稲荷神社を牧野家の祈願所と定めるとともに、境内地や祭器具などを寄進しました。以後、笠間藩は明治維新まで牧野家が領有することになり、神社の発展に尽くしました。第十五代藩主の牧野貞長公はご神徳のあらかたさを感じて、京へ具申して勅許を受け、正一位稲荷大明神の神位を大神さまに賜りました。 牧野家を除く歴代藩主の多くは他藩へ転封していきましたが、笠間を離れても崇敬心は変わらず、ご分霊を新たな領地にお祀りしています。それにより藩主の篤い崇敬が領民へ広まり、さらに領外の民へと広まっていきました。
豊川が明治になり神仏分離令ではずれたのでしょう。
派生、
最上稲荷(岡山県岡山市) - 伏見、豊川-日蓮系の独立宗派“最上稲荷教”の総本山(日蓮宗)
竹駒神社(宮城県岩沼市) - 伏見、笠間-(真言宗)竹駒寺は中央通りを挟み竹駒神社の東側にある。正式には真言宗宝窟山竹駒寺といい、江戸時代までは竹駒神社の別当寺であった
千代保稲荷(岐阜県海津市) - 伏見、豊川-「おちょぼさん」の愛称で親しまれている千代保稲荷は、商売繁盛・家内安全のご利益がある神社とされ、正月や月末は県外からも多くの参拝客が訪れる。千代保稲荷が現在の地に祀られたのは、室町時代のことで、八幡太郎義家の六男義隆が分家の際、父から先祖の御霊を「千代に保て」と、宝剣や画像を与えられ、これを祀ったのが始まりといわれている。
草戸稲荷神社(広島県福山市) - 伏見、豊川
豊川稲荷は千手観音を本尊とするお寺で、豊川稲荷は通称であり、正式には豊川閣妙厳寺、だきにてん。仏教系。
祐徳稲荷神社は、貞享4年(1687年)肥前鹿島藩主鍋島直朝公の夫人花山院萬子媛が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請された稲荷神社で、衣食住の守護神として国民の間に篤く信仰されております。日本三大稲荷の一つに数えられ商売繁昌、家運繁栄、大漁満足、交通安全等種々の祈願が絶えず、参拝者は年間300万人に達しています。御本殿、御神楽殿、樓門等総漆塗極彩色の宏壮華麗な偉容は、鎮西日光と称され、観光ルートの上にも一異彩を放っています。
笠間稲荷神社のご祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、正一位という最高の位をもつ神様です。日本三大稲荷のひとつである当社の御創建は、社伝によれば第36代孝徳天皇の御代、白雉(はくち)2年(651年)とされ、1350余年の歴史を有する由緒ある神社です。奈良時代の和銅6年(713年)に、元明天皇の詔によって編纂が命じられました「風土記」のうちの「常陸国風土記」には、「新治の郡より東五十里に笠間の村あり」と記されていますが、その頃には笠間のこの地で「古事記」や「日本書紀」に描かれています宇迦之御魂神への信仰が深く根ざしていたと考えられます。 食物の神、農業の神さまとして崇敬されていました笠間稲荷大神さまは、商工業が盛んになるにつれて殖産興業の神さまとしての信仰も広まり、近世になると農家ばかりでなく商家、町屋、武士、大名にいたるまでご分霊をいただき、屋敷神や家庭神、地域神としてお祀りされるようになりました。 とりわけ江戸時代には歴代笠間藩主の崇敬が篤く、初代藩主の松平康重公は丹波篠山に移ってからも笠間稲荷大神さまのご分霊をお迎えし、それが今の王子山稲荷となっています。第三代藩主の松平(戸田)康長公は信濃国松本へ転封した際に城内にご分霊をお祀りし、末永く崇敬しました。第四代藩主の永井直勝公は古河藩へ移動後もご分霊をお祀りし、その領民たちが奉納した神馬像が現在の楼門にある神馬像だと言われています。第五代藩主が忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩公の曾祖父、浅野長重公で、第六代藩主が祖父、浅野長直公です。大石内蔵助も笠間藩から笠間稲荷大神さまのご分霊をいただいて邸内にお祀りし、大石稲荷神社となっています。浅野家、大石家とも笠間から赤穂へと移っても篤く崇敬し続けました。第十三代藩主の井上正賢公は、夢に笠間稲荷大神が現れたことにより、いっそう深く霊験を感じて笠間稲荷神社を歴代藩主の祈願所として定めて社地社殿の拡張に努めました。第十四代藩主の牧野貞道公は、先例にならって笠間稲荷神社を牧野家の祈願所と定めるとともに、境内地や祭器具などを寄進しました。以後、笠間藩は明治維新まで牧野家が領有することになり、神社の発展に尽くしました。第十五代藩主の牧野貞長公はご神徳のあらかたさを感じて、京へ具申して勅許を受け、正一位稲荷大明神の神位を大神さまに賜りました。 牧野家を除く歴代藩主の多くは他藩へ転封していきましたが、笠間を離れても崇敬心は変わらず、ご分霊を新たな領地にお祀りしています。それにより藩主の篤い崇敬が領民へ広まり、さらに領外の民へと広まっていきました。
豊川が明治になり神仏分離令ではずれたのでしょう。
神社系3大稲荷:伏見稲荷大社(京都市伏見区)、笠間稲荷神社(茨城県笠間市)、祐徳稲荷神社
派生、
最上稲荷(岡山県岡山市) - 伏見、豊川-日蓮系の独立宗派“最上稲荷教”の総本山(日蓮宗)
竹駒神社(宮城県岩沼市) - 伏見、笠間-(真言宗)竹駒寺は中央通りを挟み竹駒神社の東側にある。正式には真言宗宝窟山竹駒寺といい、江戸時代までは竹駒神社の別当寺であった
千代保稲荷(岐阜県海津市) - 伏見、豊川-「おちょぼさん」の愛称で親しまれている千代保稲荷は、商売繁盛・家内安全のご利益がある神社とされ、正月や月末は県外からも多くの参拝客が訪れる。千代保稲荷が現在の地に祀られたのは、室町時代のことで、八幡太郎義家の六男義隆が分家の際、父から先祖の御霊を「千代に保て」と、宝剣や画像を与えられ、これを祀ったのが始まりといわれている。
草戸稲荷神社(広島県福山市) - 伏見、豊川