スサノヲは、卑弥呼の父になる。火明命(ほあかりのみこと)=ヒギハヤヒは、スサリヒメ(卑弥呼)の兄になる。ともにスサノヲの子供だが、この二人は、間違いなく結婚をしていた。ここがややこしいところ。このころは、母が異なるばあい、むしろ通例のように結婚していた。
は、半島から渡海した少彦名神(すくなひこな)と協力して、はじめて国を平定したスサノヲの子供で、大国主である。大国主とは、平たく言えば国王の意味で、ようは肩書きだが、単に大国御魂といえば、スサノヲを指す。時の権力者が変数のように入れ代わるので注意する必要がある。その国造りがようやく成立した、その直後に現れたのが、瓊々杵命(ニニギ)であった。三輪王朝は、AD150年頃、スサノヲから始まり、AD230年ごろまでの、たった三代の間のできごとにすぎない。魏志倭人伝では、この卑弥呼の以前の男系治世が続いたのは「七・八十年」としている。
○卑弥呼の父親はスサノヲで、生没年は重なっている、スサノヲは王の敬称で、追放になったスサノヲは卑弥呼の夫(愛人)に入れ代わっている。
スサノヲ 122 186
三輪王朝 150年頃 230年頃
ところで、卑弥呼がこの世を去ったのは西暦240年ないし248年の間(北史という史書から通説として固い)。
スサノオの生没年は西暦122−186と推定されている。『日本古代正史』(同志社、1976年)
卑弥呼の没年から、83年前をおよその生年として見ると、スサノヲの30代のときの子供となる。つまり、この二人は親子である可能性は残されている。卑弥呼が20才の時、スサノヲは58才になる。スサノヲの生没年は、まだ予測の域をでないが、それにしても近いことに驚く。スサノヲは、レジェンドとしてのイメージを越えて、卑弥呼と極めて近い。
結果として、記紀の伝承神話の内容はAD100年を遡る内容はないのだろう。観念的には、そう古くない。内容を、ためらわずに重複して表記することによって、年代をどんどん古くさせていたのは記紀の博士(ふみよみびと)たちだった。
は、半島から渡海した少彦名神(すくなひこな)と協力して、はじめて国を平定したスサノヲの子供で、大国主である。大国主とは、平たく言えば国王の意味で、ようは肩書きだが、単に大国御魂といえば、スサノヲを指す。時の権力者が変数のように入れ代わるので注意する必要がある。その国造りがようやく成立した、その直後に現れたのが、瓊々杵命(ニニギ)であった。三輪王朝は、AD150年頃、スサノヲから始まり、AD230年ごろまでの、たった三代の間のできごとにすぎない。魏志倭人伝では、この卑弥呼の以前の男系治世が続いたのは「七・八十年」としている。
○卑弥呼の父親はスサノヲで、生没年は重なっている、スサノヲは王の敬称で、追放になったスサノヲは卑弥呼の夫(愛人)に入れ代わっている。
生年 没年卑弥呼 160 240
スサノヲ 122 186
三輪王朝 150年頃 230年頃
ところで、卑弥呼がこの世を去ったのは西暦240年ないし248年の間(北史という史書から通説として固い)。
スサノオの生没年は西暦122−186と推定されている。『日本古代正史』(同志社、1976年)
卑弥呼の没年から、83年前をおよその生年として見ると、スサノヲの30代のときの子供となる。つまり、この二人は親子である可能性は残されている。卑弥呼が20才の時、スサノヲは58才になる。スサノヲの生没年は、まだ予測の域をでないが、それにしても近いことに驚く。スサノヲは、レジェンドとしてのイメージを越えて、卑弥呼と極めて近い。
結果として、記紀の伝承神話の内容はAD100年を遡る内容はないのだろう。観念的には、そう古くない。内容を、ためらわずに重複して表記することによって、年代をどんどん古くさせていたのは記紀の博士(ふみよみびと)たちだった。