欽明天皇(きんめいてんのう、男性、509年 - 571年4月15日)は、第29代の天皇(在位539年12月5日 - 571年4月)。
和風謚号
『古事記』では、天国押波流岐広庭(あめくにおしはるきひろには)天皇という。 『日本書紀』では、天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)という。
継体天皇の嫡子で、母は手白香皇女(たしらかのひめみこ)。
継体天皇と手白香皇后(たしらかのひめみこ)の間の息子である。宣化天皇が、身罷った時に、安閑天皇の皇后である山田皇后を推薦したが、これは辞退されたためまだ若い欽明天皇が12月5日に即位した。宣化天皇の皇女岩姫を皇后とし敏達天皇を設けたほか、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の父。
なお、継体天皇の死後、安閑天皇、宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷が並立していたという説がある。
皇居
都は磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや、現在の奈良県桜井市金屋・外山)。古事記には、師木島大宮とある。
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大臣・大連
大伴金村と物部尾輿を大連(おおむらじ)とし、蘇我稲目宿禰を大臣(おおおみ)としたが、すぐに大伴金村は失脚する。これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがる。
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仏教伝来
552年に百済から仏像と経文が伝来する(仏教伝来そのものに関しては、538年とする説が有力である。)。これによって、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で対立がおこり、物部氏は寺を焼き、仏像を投げ捨てる事までした。これにより物部氏と蘇我氏の間の確執が始まる。
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任那
百済の聖明王(三国史記では聖王、中国の正史では諱を明とすると書かれている)の間とは541年より任那の復興について協議していたが、戦況は百済側に不利であり、552年には平壌と漢城を放棄(三国史記によれば538年)、さらに554年に新羅との戦で、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年(もしくは560年)に任那を滅ぼしてしまう。562年には、新羅に討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する。(日本書紀には新羅は白旗を立てて欺いたと書かれている。同年の三国史記の新羅本紀にも伽耶が反乱を起こしたため、軍隊を送り、白旗を立てて敵を驚かせたと言う似た記述が見られる。)同年高句麗にも軍を送っている(三国史記では554年に似た記述が存在する。)
なお、任那は一つの国ではなく十国が集まった連合であると言う記載が日本書紀にある。
ちょうどこのころは、大和朝廷が任那からの影響力を失い、新羅が任那を圧迫しており、百済の弱体化もあり、その勢力を維持できず新羅に勢力圏を明け渡した時期とも考えられる。
欽明天皇は、最後まで任那復興を夢見ながら亡くなったという。
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御陵
檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)。 奈良県高市郡明日香村平田の平田梅山古墳(前方後円墳・全長140m)に治定されている。ただし、飛鳥の見瀬丸山古墳を欽明天皇の御陵とする説もある。
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その他
聖武天皇の治世に、中納言阿倍広庭(あべのひろにわ)と言う人物が実在している。偶然とも思われるが、この広庭と言う名前は欽明天皇から取った物ではないかと思われる。この事から逆に、即位前の欽明天皇を「広庭皇子(ひろにわのみこ)」と呼称する学者もいる(記紀には和風謚号しか記されていない)。
* 弟(おと)、天国押波流岐広庭(あめくにおしはるきひろには)天皇、師木島(しきしま)の大宮に坐しまして、天の下治めらしめしき。
師木島の大宮は、奈良県磯城郡。
和風謚号
『古事記』では、天国押波流岐広庭(あめくにおしはるきひろには)天皇という。 『日本書紀』では、天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)という。
継体天皇の嫡子で、母は手白香皇女(たしらかのひめみこ)。
* 皇后:石姫皇女(いしひめのひめみこ、宣化天皇の皇女) o 箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ、八田王) o 渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと、敏達天皇) o 笠縫皇女(かさぬいのひめみこ、狭田毛皇女) * 妃:稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ、宣化天皇の皇女。古事記に小石比賣命) o 石上皇子(いそのかみのみこ、上王) * 妃:日影皇女(ひかげのひめみこ、宣化天皇の皇女?。古事記に無し) o 倉皇子(くらのみこ。古事記に宗賀之倉王として、糠子郎女の腹) * 妃:堅塩媛(きたしひめ、蘇我稲目宿禰の女) o 大兄皇子(おおえのみこ、用明天皇) o 磐隈皇女(いわくまのひめみこ、夢皇女) 伊勢斎宮 o 臘嘴鳥皇子(あとりのみこ、足取王) o 額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、推古天皇) o 椀子皇子(まろこのみこ、麻呂古王) o 大宅皇女(おおやけのひめみこ) o 石上部皇子(いそのかみべのみこ、伊美賀古王) o 山背皇子(やましろのみこ、山代王) o 大伴皇女(おおとものひめみこ) o 桜井皇子(さくらいのみこ、桜井之玄王) o 肩野皇女(かたののひめみこ、麻奴王) o 橘本稚皇子(たちばなのもとのわかみこ) o 舎人皇女(とねりのひめみこ、泥杼王) 当麻皇子の妃 * 妃:小姉君(おあねのきみ、蘇我稲目宿禰の女) o 茨城皇子(うまらきのみこ、馬木王) o 葛城皇子(かずらきのみこ) o 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ) 用明天皇の皇后、聖徳太子の母 o 穴穂部皇子(あなほべのみこ、須賣伊呂杼・天香子皇子・住迹皇子) o (宅部皇子)→宣化天皇の皇子か o 泊瀬部皇子(はつせべのみこ、長谷部若雀命・崇峻天皇) * 妃:糠子(ぬかこ、春日日抓臣の女) o 春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ) o 橘麻呂皇子(たちばなのまろのみこ、麻呂古王)即位
継体天皇と手白香皇后(たしらかのひめみこ)の間の息子である。宣化天皇が、身罷った時に、安閑天皇の皇后である山田皇后を推薦したが、これは辞退されたためまだ若い欽明天皇が12月5日に即位した。宣化天皇の皇女岩姫を皇后とし敏達天皇を設けたほか、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の父。
なお、継体天皇の死後、安閑天皇、宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷が並立していたという説がある。
皇居
都は磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや、現在の奈良県桜井市金屋・外山)。古事記には、師木島大宮とある。
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大臣・大連
大伴金村と物部尾輿を大連(おおむらじ)とし、蘇我稲目宿禰を大臣(おおおみ)としたが、すぐに大伴金村は失脚する。これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがる。
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仏教伝来
552年に百済から仏像と経文が伝来する(仏教伝来そのものに関しては、538年とする説が有力である。)。これによって、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で対立がおこり、物部氏は寺を焼き、仏像を投げ捨てる事までした。これにより物部氏と蘇我氏の間の確執が始まる。
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任那
百済の聖明王(三国史記では聖王、中国の正史では諱を明とすると書かれている)の間とは541年より任那の復興について協議していたが、戦況は百済側に不利であり、552年には平壌と漢城を放棄(三国史記によれば538年)、さらに554年に新羅との戦で、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年(もしくは560年)に任那を滅ぼしてしまう。562年には、新羅に討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する。(日本書紀には新羅は白旗を立てて欺いたと書かれている。同年の三国史記の新羅本紀にも伽耶が反乱を起こしたため、軍隊を送り、白旗を立てて敵を驚かせたと言う似た記述が見られる。)同年高句麗にも軍を送っている(三国史記では554年に似た記述が存在する。)
なお、任那は一つの国ではなく十国が集まった連合であると言う記載が日本書紀にある。
ちょうどこのころは、大和朝廷が任那からの影響力を失い、新羅が任那を圧迫しており、百済の弱体化もあり、その勢力を維持できず新羅に勢力圏を明け渡した時期とも考えられる。
欽明天皇は、最後まで任那復興を夢見ながら亡くなったという。
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御陵
檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)。 奈良県高市郡明日香村平田の平田梅山古墳(前方後円墳・全長140m)に治定されている。ただし、飛鳥の見瀬丸山古墳を欽明天皇の御陵とする説もある。
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その他
聖武天皇の治世に、中納言阿倍広庭(あべのひろにわ)と言う人物が実在している。偶然とも思われるが、この広庭と言う名前は欽明天皇から取った物ではないかと思われる。この事から逆に、即位前の欽明天皇を「広庭皇子(ひろにわのみこ)」と呼称する学者もいる(記紀には和風謚号しか記されていない)。