○卑弥呼の再婚
熊襲征討は大失敗した。第二王妃、卑弥呼(ヒミク)は「夫の死を直ちに明かしては筑紫にまで攻め込まれるやもしれない」と、民の動揺を防ぐため喪を伏せた。卑弥呼は第二妃であったが、初代大国主スサノヲの子で、倭王を継ぐ地位にあった。魏へ貢献して倭王の称号を得て倭国の女王となり、魏に援軍を要請する使いを送った。
筑紫平野の東部、朝倉郷に兵を集めて、狗奴国と対峙していたが、狗奴国の弓足は長く、戦う前に陣が崩れる有り様で勝ち目は少なかった。本朝の存続を願った卑弥呼は重臣の吉備臣の祖・*鴨別(かものわけ)を派遣して和平にあたらせた。狗奴国の弓満王は未亡人になった若い卑弥呼と、日向ではじめて対面した。塩土の翁、卑弥呼の素姓も教えていた。卑弥呼の美しい眼差しが稲妻のように弓満王をつらぬいた。眼と眼があい、心が通じた。「なんと立派で素敵な人なんだろう」、女のほうからすすんで熱いおもいを伝えた。卑弥呼はスカーレット・オハラよりも情熱的な女性だった。恋情あれば、ただちに契りを交わすのは古代の神々の恋の慣わし。「即ち一夜にして腹めり」(紀)といった素早さだった。弓満王、このとき31歳。卑弥呼、21才。はじめて二人が会い、デートをしたのは日向(ひむか)の投馬(都万)国、今の宮崎県西都市だった。逢初川(あいぞめがわ)はこの二人の出会いに由来している。大和の初瀬川も、それに由来している。
大和王は九州王朝男子とし、正后は代々三輪(出雲)王朝から娶ることを条件に、新王朝は誕生した。これは、母型性社会では卑弥呼の勝利であった。婚儀が行われたのは場所からは火山の噴煙が眺められた。卑弥呼の別名にちなんでその山をちなんで桜島と名づけた。
さて、そこで、魏志倭人伝は狗奴国の王を「卑弥弓呼」(ヒミクク)と表記した。卑弥呼の文字に弓を入れただけだ。しかしこの弓の一字にこそ、弓満王を引いているのである。魏の役人、長政が、一大率に滞在して見聞した内容を、編纂したのが陳寿(ちんじゅ)。弓満王の中国名、一字、「弓」をそのまま卑弥呼の名に挿入したのだ。彼の名は、「弓」で、姓は「」である。そもそも、卑弥呼とは敵対していた狗奴国の王の名前が卑弥弓呼と書かれたこと、そのこと自体にもっと疑問を持たなければならない。つまり、狗奴国の王名が卑弥弓呼であるわけがないからである。ここに重大な作為が隠されているとすれば、弥の文字である。もとは彌(み)で、弓をゆるめるという意味がある。
卑弥呼と、卑弥弓呼、これは双方が同じムカデ文字にしたことは、結婚したことを暗示している。こうして、はじめてすっきりと納得できるのである。しかし、卑弥呼と弓満王の世紀の大ロマンを卑弥弓呼の表記だけで理解しろというのは普通の漢文力では酷というものだろう。クレオパトラとシーザ-にも匹敵するこの大スクープを長政、もっと詳しく記述すべきだった。
弓満王は、卑弥呼の魅力にすっかり虜になって、あっさり陥落してしまった。はじめ強敵だった狗奴国(九州王朝)と大倭・三輪王朝は卑弥呼と弓満王の結婚でめでたく同和した。「及共立一女子為王」、諸国が共同して一女子を王とした。あれほど攻めても攻めても、大和に仕えなかった熊襲がこれ以後きっぱりと仕えることになった。そしてこの時から、記紀から熊襲の表記がぱったりとなくなっている。薩摩隼人が応神以来、王室と同盟・提携した勢力として現れたのは納得できるのである。合併王朝は、そのはじめ九州で誕生した。ニニギ、天つ神が純粋に、しかも優勢に祀られている神社群は九州にしかない。それはすなわち、熊襲、隼人の勢力圏と一致するのである。
熊襲征討は大失敗した。第二王妃、卑弥呼(ヒミク)は「夫の死を直ちに明かしては筑紫にまで攻め込まれるやもしれない」と、民の動揺を防ぐため喪を伏せた。卑弥呼は第二妃であったが、初代大国主スサノヲの子で、倭王を継ぐ地位にあった。魏へ貢献して倭王の称号を得て倭国の女王となり、魏に援軍を要請する使いを送った。
筑紫平野の東部、朝倉郷に兵を集めて、狗奴国と対峙していたが、狗奴国の弓足は長く、戦う前に陣が崩れる有り様で勝ち目は少なかった。本朝の存続を願った卑弥呼は重臣の吉備臣の祖・*鴨別(かものわけ)を派遣して和平にあたらせた。狗奴国の弓満王は未亡人になった若い卑弥呼と、日向ではじめて対面した。塩土の翁、卑弥呼の素姓も教えていた。卑弥呼の美しい眼差しが稲妻のように弓満王をつらぬいた。眼と眼があい、心が通じた。「なんと立派で素敵な人なんだろう」、女のほうからすすんで熱いおもいを伝えた。卑弥呼はスカーレット・オハラよりも情熱的な女性だった。恋情あれば、ただちに契りを交わすのは古代の神々の恋の慣わし。「即ち一夜にして腹めり」(紀)といった素早さだった。弓満王、このとき31歳。卑弥呼、21才。はじめて二人が会い、デートをしたのは日向(ひむか)の投馬(都万)国、今の宮崎県西都市だった。逢初川(あいぞめがわ)はこの二人の出会いに由来している。大和の初瀬川も、それに由来している。
大和王は九州王朝男子とし、正后は代々三輪(出雲)王朝から娶ることを条件に、新王朝は誕生した。これは、母型性社会では卑弥呼の勝利であった。婚儀が行われたのは場所からは火山の噴煙が眺められた。卑弥呼の別名にちなんでその山をちなんで桜島と名づけた。
さて、そこで、魏志倭人伝は狗奴国の王を「卑弥弓呼」(ヒミクク)と表記した。卑弥呼の文字に弓を入れただけだ。しかしこの弓の一字にこそ、弓満王を引いているのである。魏の役人、長政が、一大率に滞在して見聞した内容を、編纂したのが陳寿(ちんじゅ)。弓満王の中国名、一字、「弓」をそのまま卑弥呼の名に挿入したのだ。彼の名は、「弓」で、姓は「」である。そもそも、卑弥呼とは敵対していた狗奴国の王の名前が卑弥弓呼と書かれたこと、そのこと自体にもっと疑問を持たなければならない。つまり、狗奴国の王名が卑弥弓呼であるわけがないからである。ここに重大な作為が隠されているとすれば、弥の文字である。もとは彌(み)で、弓をゆるめるという意味がある。
卑弥呼と、卑弥弓呼、これは双方が同じムカデ文字にしたことは、結婚したことを暗示している。こうして、はじめてすっきりと納得できるのである。しかし、卑弥呼と弓満王の世紀の大ロマンを卑弥弓呼の表記だけで理解しろというのは普通の漢文力では酷というものだろう。クレオパトラとシーザ-にも匹敵するこの大スクープを長政、もっと詳しく記述すべきだった。
弓満王は、卑弥呼の魅力にすっかり虜になって、あっさり陥落してしまった。はじめ強敵だった狗奴国(九州王朝)と大倭・三輪王朝は卑弥呼と弓満王の結婚でめでたく同和した。「及共立一女子為王」、諸国が共同して一女子を王とした。あれほど攻めても攻めても、大和に仕えなかった熊襲がこれ以後きっぱりと仕えることになった。そしてこの時から、記紀から熊襲の表記がぱったりとなくなっている。薩摩隼人が応神以来、王室と同盟・提携した勢力として現れたのは納得できるのである。合併王朝は、そのはじめ九州で誕生した。ニニギ、天つ神が純粋に、しかも優勢に祀られている神社群は九州にしかない。それはすなわち、熊襲、隼人の勢力圏と一致するのである。