三柱鳥居(みはしらとりい)
大和の大神(おおみわ)神社の三輪鳥居(三ッ鳥居)とともに、三柱鳥居は、他に余り例がない。九州にもあるようだが、詳しくないが、古くから造営されていたかどうか疑問だ。
ただ、私見ではこの神社は実はもっと古くからあったと思われる。すでに紹介したように「天之御中主神」は翻訳された神名であるので、この神社で後世になって御祭神に変更したのだろうと思われる。
大和の大神(おおみわ)神社の三輪鳥居(三ッ鳥居)とともに、三柱鳥居は、他に余り例がない。九州にもあるようだが、詳しくないが、古くから造営されていたかどうか疑問だ。
社内にある池は湧水で、元糺(もとただす)の池と呼ばれる。中央の石組みは本殿の御祭神(*天之御中主神)の神座で、宇宙の中心をあらわす。この三柱の鳥居が深い謎をもつことは言うまでもない。景教の名残だとされる(社伝)ので、秦一族にキリスト教の一団が存在したことを示すという。推古天皇12年勧請されたとすると、西暦606年、およそ今から1300年前のこと。キリスト教ネストリウス派が京都に伝来していたことになる。ネストリウス派は431年エフェソスの公会議で異端とされ、それ以後、東方に布教活動を移し、635年には長安に寺院が建てられた。長安の大秦寺(だいしんじ)にはその「大秦景教流行中国碑」が残されている。景教が時を同じくして日本にも来たと考えられる。長安の大秦寺と秦寺と呼ばれた広隆寺にも「秦」の文字が見えるのは偶然だろうか?
そして、広隆寺そのものが、いつのころか景教寺と呼ばれていたのも事実。しかし、三角鳥居が景教の顕著な特徴だという証拠はあまり見当たらない。この景教遺跡説は佐伯好郎翁が唱えた卓越した説で支持する人も多いが、ネストリウス派は三位一体論に組みせず異端とされたことを踏まえておく必要があるだろう。
*三柱鳥居の真ん中に鎮座する神は、「天之御中主神」は古事記では独り神といわれ、配偶者をもたない神である。男女一対の神でないことは、別天神(ことあまつかみ)と言われ、すなわちこの世が創造される以前からあった陽気だけで誕生した神ということになる。一番初めに誕生された別格な天上の神であり、どうじに決して姿を現わすことがない。したがって、「わたしはアメノミナカヌシです。」などという人格神とは全く異なる。したがって、歴史上の人物として、登場することは全くありえない。 この神は原初の創造主であり、すべての群霊を統治する太一そのものである。天の中央の主神といえば、北極星に他ならない。道教の天空観は、北極星を太一神として、最も尊い神とする。最高の天の支配を北辰に置き、神の常居、すなわち「中宮」とする。「中宮」の次に「紫宮」または、「紫微宮」があり、これらが北斗になる。マンダラでいえば中尊にあたる神である。そこで、道教的天上最高神の日本バージョンが「天之御中主神」。「天之御中主神」も外来神なのである。別天神(ことあまつかみ)は造化三神をもって一体となり、二群霊の生みの親神となる。そこで、天之御中主神、高御産巣日神(たかずすひのかみ)、神産巣日神(かむむすひのかみ)と合わせ、三柱として祀っていると見ることができる。
ただ、私見ではこの神社は実はもっと古くからあったと思われる。すでに紹介したように「天之御中主神」は翻訳された神名であるので、この神社で後世になって御祭神に変更したのだろうと思われる。
祭神は社号は、別の神名が隠されている。社号では天照御魂(アマテルミタマ)とある。アマテルは音借では「阿麻留」ともあり、これは音として独立して古代からあったことを示す。この神は別名火明命(ホアカリノミコト)で、出雲系の饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)。スサノヲの第五番目の子で、国を平定した始めの王である。霧島神社では、「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日尊」という、舌を噛みそうな超長い名前で祀っている。(あまてる・くにてる・あめの・ほあかり・くしみかまたま・にぎはやひのみこと) 大和には、「鏡作坐天照御魂神社」(かがみつくりにますあまてるみたま) 、播磨には「粒坐天照玉命神社」、 対馬には「阿麻邸留神社」、 河内には「天照大神高座神社」 ・・・など尾張氏系とされる神社がある。 また、筑前に「天照神社」、 大和に「他田坐天照御魂神社」(おさだにますたまてるみたま)、 丹波に「天照玉命神社」、 摂津に「新屋坐天照御魂神社」などがある。 木島社は唯一の秦氏系の天照系神社である。