秦をはたと読むのはなぜか?
前200年頃のこと、徐福と、その集団が日本に渡海した。「徐は姓、伯益の後、夏、徐を封ず。」とあり、また、徐氏は秦、黄、江といった姓も賜っていた。秦をハタと読むのは、伯太(はた)から来ているかもしれない。伯太は、地名としては、”はかた”(博多)とも読む。徐福らが秦始皇帝と同じ姓を持っていたことは、実に大きい意味をもつ。「徐福は平原広沢を得て、王として止まり、帰って来なかった。」(史記巻百十八・司馬遷)徐福が日本で王になっているというのである。これによれば、日本で王になっていたとしたら、なんと『』という王だったことになる。紛(まぎら)わしいことに、これは秦始皇帝の姓と同じなのである。 始皇帝の民、弓月王、そもそも彼らは海を一度も見たことがない内陸系の民族であった。加羅国まで南下して日本からの救援ではじめて渡海できた。そもそも、航海を常とする海人とは言えない。そこで、秦の「はた」が朝鮮語のバタ(海の意味)である可能性は消える。そして、駄目押しともいえることは秦族は中華(漢)人とも朝鮮族とも違うことがはっきりした。 彼らはペルシャ人やヘブライ人をも含んでいた中国西域の多人種混合の遊牧系民、始皇帝の臣民であった。秦の「はた」は、漢借で「波多」、または「波陀」で、意味として旗のほかに着物の生地のことをさしていると言われている。 インド系の語彙で、タミル語の Pat−am(布地、旗、タコ)が「はた」と変化した。(PがHに変化する)。(小野 晋 日本語とタミル語対応表から) 秦氏らは布地の代名詞として「はた」と呼ばれるようになったのだろう。「秦」が「はた」と読まれるようになった理由に、「はた」が「はたおり」の「はた」からきているという説は、やはり本当であった。タミル語の祖語であるシュメール語では「カダ」(綿織物)である。シュメール語→タミル語→日本語に単語が流れこんでいることを感じ取ることができる。やはり織物業がすべて元になっている。明快単純にいえば、江南渡海系ハタ族は幡、西域系ハタ族は秦と区別できる。