日本は言霊、数霊の国です。蘇民将来、八百万の神

言霊メモ聖徳太子

神倭(かむやまと)皇朝第一代神武天皇の頃より中国・朝鮮よりの人々の来朝、帰化が多くなって来た事は既にお話しました。そして厳談の歴史学では、その来朝の人々を朝鮮人または中国人と書いてありますが、実はそれらの国々の人々と混血した更なる西方からの民族の子孫であったのであります。当言霊の会にユダヤ人が時々訪れますが、それ等のユダヤ人の中には、西方のユダヤ、イスラエル国家の滅亡と、東に於ける日本の神倭皇朝の建国が時代的に同時であり、その後の日本文化とユダヤ文化が余りにも似ていることから、日本はユダヤ国家の「成れの果て」だ、と主張してやまない人もいる位です。そんな言い伝えがある程、神倭皇朝発足以来、外国人の来日、帰化の現象は増大し、十五代応神天皇の時以後は爆発的に帰化人が多く渡って来た事が窺えます。帰化ユダヤ人の増大と、彼等の持つ経済・産業の能力の優秀さの故に、彼等の日本社会に於ける地位・勢力は無視出来ぬ程に大きくなったことが想像されます。推古天皇の御宇、帰化人東(あずま)の漢(あや)の直駒(あたいこま)は大臣となり、経済的にばかりでなく、政治的にも一大勢力となったことが窺えるのであります。その時代、皇太子でありました聖徳太子の事績について一言お話したいと思います。
 聖徳太子は日本古来の神道(言霊学)に精通し、更に中国の儒教、印度の仏教に詳しく、親しく仏教書の講義をされる程でありました。太子の作った十八条の憲法の第一条「和を以って尊しとなす」は有名であります。この第一条の内容は単に「仲良くする事は大切だ」という意味なのではありません。言霊学の言霊ワの一事の意味をよく知り(言霊ワの説明については「コトタマ学入門」の「事や物に名前をつけること」の章参照下さい)、その上での言挙げとなったものです。太子は皇祖皇宗の布斗麻邇による人類歴史創造の内容を熟知しながら、日本古来の言霊学を秘蔵し、表に仏儒の二教を立て、生存競争社会での人心の安寧を計った第一人者でありました。現代社会の一部の右翼思想家が謂う「日本古来の教えを疎んじ、仏教を礼賛した人」とは程遠い、古神道の英傑であられたのであります。次に太子の数多い治績の一つである京都太秦(うずまさ)の広隆寺の由緒書の抜粋を記します。
広隆寺――京都市右京区太秦蜂岡町三六。本尊は聖徳太子。蜂岡山(ほうこうざん)と号し、聖徳太子御願七寺の一、山城第一の古刹。太秦寺(うずまさでら)とも号す。推古天皇の十一年、太子が秦河勝(はたのかわかつ)に弥勒菩薩半跏像を下賜、河勝これを奉いてこの寺を創建。三十年、新羅(しらぎ)、任那(みまな)の二国から贈られた仏像を当寺に安置したことが日本書紀に記されている。秦氏は帰化人の中で最も繁栄した一族で、六世紀には既に七千戸の人々が住んでいたという。十月十二日の夜、広隆寺境内にある大酒神社の牛祭は天下の奇祭とされている。以上の広隆寺の由緒書についてもう少し説明して、帰化ユダヤ人の実状を浮き彫りにすることにしましょう。太子は帰化ユダヤ人の由来を知った上で、ユダヤ人の活動の根拠地として太秦に広隆寺を建てさせたものであります。太秦は漢音がダージーと読み、ユダヤ人の魂の祖モーゼの子が建国したと伝えられる東ローマ帝国のことであります。寺の内に昔は十二の井戸があったといわれ、その井戸の石に伊凌井(いさらい)の文字が見られるといいます。現存は三つだそうです。伊凌井はイスラエルであり、十二の井戸はユダヤの十二部族を表わしています。寺内に酒公なる人を祭った大酒神社があります。大酒は大辟(おおさけ)の転訛であり、それはユダヤ王ダビデの漢音名であるといわれます。更に大酒神社の十月十二日の牛祭とは、神選民族ユダヤの転職である万有意識即ち言霊ウを分析して、物質の本質を探究するユダヤ民族三千年の責務を表わしていまする七夕(たなばた)の織姫(天照大神)と牽牛(須佐男命・エホバ)の牽牛、言霊ウの意味をも表わします。それは五行でいう金星(ウ)と同意でもあります。聖徳太子が秦河勝に下賜した弥勒菩薩半跏像とは、仏説「弥勒菩薩下生経」にある如く、釈迦生存時、その甥である弥勒は仏教に反逆し、仏身を傷つけた罪で追放され、五十六億七千万年の放浪、修業の後、成仏し、弥勒菩薩となっで下生、衆生を救うといわれ、即ち物質世界の真相を究明し、その偉勲によって、仏と並んで人間社会を救済する仏として活躍することを予言された菩薩であり、それの丁度、高天原で叛乱を起こし、黄泉国に追放された須佐男命が物質科学を興して、人類の第二文明を完成させる事と対応する皇祖皇宗の歴史経綸の立場を説明する話とも一致することとなります。聖徳太子の達見を伝える話なのであります。話をもう一つの話題に移しましょう。言霊原理が世の中の表面から隠された約二千年、朝廷ではその間の人心の不安、同様に供える種々の方策を講じました。そればかりではなく、民間に於きましても言霊原理が昔に存在したという事実を知った人々が明らさまにではなく、陰にその素晴らしい精神秘宝を構成に伝えようとする心情を汲み取ることが出来る事績を遺しております。

 それについて一、二の話をしてみることといたします。十年以上前の事、私は東京のJR原宿駅の近くにある「香の会」の以来で弘法大師のお話をその会員の前ですることになりました。と言っても、私が弘法大師のことを特別に知識している訳ではありません。ただ、大師が言霊学を学んだことがある、という話を聞いていたというだけであります。まとまった話が出来るわけがありませんので、仲焼刃で図書館へ行き、館員に頼み込んで弘法大師全三十数冊を借り、大急ぎの斜読(はすよ)みをしました。全巻漢文で綴られ、旧制中学五年間の漢文の知識では、内容の十分の一の理解も出来なかったことを覚えています。そんな読み方ではありましたが、それでも大師全集の中では数頁に一つ位の割で「言霊原理を知らなければ、この文章は書けない」と思われる文言に枚挙に遑がない程出合った、のであります。その上、日本民族伝統の言霊布斗麻邇を知っていて、それを秋からに説くことが出来ない“もどかしさ”が時には激烈な朽ちよう文章となって迸(ほとばし)るその気魂のすさまじさを感じることが出来ました。三十余巻の大師全集の中では、民衆救済、産業開発の大師の慈悲の姿は薄れ、陀羅尼密教の本尊である言霊布斗麻邇への渇仰と、その胸中からする時代批評が色濃く論じられるのを読みとることが出来たのであります。その斜読みのお陰で弘法大師についての講演は好評をはくしたのであります。この弘法大師全集との出会いは後日譚があります。それから数ヵ月後、私は家内とともに関西旅行をしたのですが、その旅の中で高野山金剛峰(こんごうぶ)寺にお参りする機会に恵まれました。お寺の広大な基地を見学し、弘法大師を祀る大師堂の前に来ました。若い白装束姿のお坊さんの団体が二十人程、大師堂の前でお経を斎称していました。この人たちが去った後でゆっくりお参りしようか、と思い、待っていたのですが、中々お経は止みそうにありません。そこで仕方なくお坊さん達の脇に進んで、端の方でお参りしました。家内と共に「高天原成弥栄」を小さい声で三称し、八拍手をしました。私自身何の感慨も起っていません。ただお参りの挨拶を、と気軽に思っていたのです。ところが、気が付くと私の眼から流れ出るように涙が落ちているのです。「滂沱(ぼうだ)」とはこういう涙のことをいうのでしょう。楽しくも悲しくもありません。感情的なものは何もありません。それなのに両眼からあふれる如く涙が止まりません。拭っても拭っても止まりません。「何故」と考えてもその原因が分かりません。
そのうちに隣にいたお坊さん達のお経も終わり、去って行きました。大師堂の前には私達二人がいるだけです。けれどまだ涙は止まりません。その内、やっと気が付きました。「そうだ、空海さん、喜んでいるのだ」ということに。言霊学の先師、小笠原孝次氏の話によれば、西暦八○六年空海は留学の中国より帰朝し、真言宗を伝えました。平城天皇の御宇といわれます。天皇、公卿達の前で基地用の報告となる真言密教の法話をし、賞賛され、終って天皇よりお茶を賜った際、天皇は次のようなことを空海に言われたといいます。「今日は汝の真言密教の話は見事でありました。それについて私は何も言うことはない。ただ一つ、日本には古来から真言密教の原本となる言霊布斗麻邇の学問といものがある。汝はそれを知っているか」と言って、言霊学のホンの「さわり」をお話されたといいます。頭脳明晰な空海は直ちにそれを理解し、その後の真言(マナ)密教は空海独特の色合いを深めたといいます。大師全集三十数巻の一番最後の本の、そのまた最後の頁に、大師が伊勢神宮に参籠し、終って神前に奉納、奏上した言葉「……民、空海謹み謹みも申す。……」の真剣味あふれた言葉を思い出します。世の中に伝えようとしてその時ではないことを知っていた人の心の内、その心情が痛いほど理解されます。空海、弘法大師が真言宗を開いて千二百年、今、言霊布斗麻邇の大法はその姿を明らかにして、大師堂の前にあると知った時の、生き通しに生きている空海さんの喜びが如何ばかりであったでしょうか。その事に私は気付く事が出来たのでした。千二百年の間、金剛峰寺に信仰の対象として生きて来た空海さんと、幸福にも言霊学開顕(かいけん)の任にある私の心の中の空海さんが、その時、お互いを見つめ合い、歴史の重さと、皇祖皇宗の人類歴史創造の舞台である「今・此処」に膨れ上がる希望と栄光を共にした一瞬だったのではなかろうか、と今も尚、私は考えております。

 言霊布斗麻邇の原理とそれによる世界統治の業を日本古神道と呼びます。これを隠没させるに当り、新しく神社神道を創設しました。言霊の原理そのものは隠し、その象徴や儀式形態のみを以ってする宗教を創設し、人心の安寧に寄与させたのであります。その時以前、日本の古代に於ては人が神を拝む風習はなかったのです。それ故、神社神道では儀式の形式に言霊原理の象徴を形にしたものを取り入れ、また儒教・仏教の儀式を真似て信仰形式としたものであります。今から二千年前の日本民族伝統の言霊原理の隠没は、物質科学文明創造を促進する為の、いわば方便としての隠没であります。この世から抹殺することではありません。物質科学文明完成の暁には再びこの社会に復活させなければなりません。よく引用することですが、大本教教祖のお筆先「知らしてはならず、知らさいてもならず、神はつらいぞよ」と言った具合のものです。そこで私達日本人の祖先の聖の人々が採用した手段は驚く程巧妙なものでありましたる先に説明したものと合わせて、ここに列記することにしましょう。もう一人「知らしてはならず、知らさいでもならず、神はつらいぞよ」の気持ちの中で悪戦苦闘した人として鎌倉時代の日蓮上人を挙げることが出来ます。

 日蓮といえば、鎌倉時代、元(げん)の大軍が日本に攻め寄せた時代、「念仏間、禅天魔、真言七国、律国賊」と言って当時流行の仏教各派を批判し、困難の時代には法華経を奉じる日蓮宗の心に於いて国民全体が一体とならねばならぬ、と主張したことによって幕府の勘気に触れ、打首にされそうになったり、二度も伊豆・佐渡に流刑になった事で知られています。けれど伊勢神宮に参籠し、荒木田某なる神主より言霊布斗麻邇を学び、千葉外房の清澄山に登り、太平洋から昇る日の出に向って「南無妙法蓮華経」を唱え、経の中の経である法華経全体が指月の指となる言霊布斗麻邇の大法を胸中に抱き、日蓮独特の法華経の弘通に務めた人であることを知る人は少ないようであります。





*秦造河勝はすくなくとも国造(くにのみやつこ)の地位にあったはずである。彼については、モーゼの出生譚に近い伝説があり、奇跡を起こせる聖人(セイント)だった。自ら、秦の始皇帝の生まれ変わりであると宣言しており、その名声は広く知られた。初瀬川を壷にのって流れてきたのを、拾い上げると幼児があらわれた。この幼児は奇瑞をあらわし、朝廷内で幼少から寵愛され、皇子(みこ)として育った。その能力は特別に秀でており、神通力や予言能力・奇跡を起こす力があった。それゆえに神とも神のようだとも噂された。天皇事(みかどごと)をも行うようになった。「豊聡法大王」(とよとみみののりおおきみ)という名前がついた。厩戸豊耳皇子(うまやとのとよみみのみこ)はイエス生誕に擬しており、彼が正式には用明天皇の后、穴穂部間人皇后の腹から産まれていないことを示す。そして、太子の別名・東宮聖徳(ひがしのみやしょうとく)とは、東宮に住む聖ということで、なんと驚くことにだれあろう、秦河勝その人のことである。「皇太子」とは、当時、政治・軍事の執行権をもつ「大王」のことである。つまり、実権をもっているほうが皇太子で、逆に、天皇は、「天津日嗣高座」と呼ばれ、皇祖(天照)を守る葬送儀礼や、宗教的な典礼を行うことをもっぱらとしていた。そこで、皇太子とは為政者であり、「大王」と読み替えなければならない。敏達天皇の頃にすでに莵道貝蛸皇女(うじのかいだこのひめみこ)を娶わせており、このころから用明・崇峻・推古にいたるまで秦河勝は大王であったのである。そうした意味で、記紀は秦河勝を大王の間は、聖徳太子という別人に祭り上げるたのである。その後、蘇我家と拮抗する一豪族に押し込められたのである。ここを見抜けないと聖徳太子の真相は謎のままである。
 
太子と河勝の共通性は以下の通り。 一)河勝は今の赤穂市で没したが、播州播磨国にあたる。太子が勝鬘経を講じた褒美に推古天皇が与えたのが、播州播磨、いまの揖保郡太子町あたりの水田百町とされ、法隆寺建立の財源拠出地でもあった。河勝が晩年播磨国に住んだことは、所領地に戻ったにすぎないことになる。 二)池辺皇子に犯されて伊勢の斎宮を解任された莵道貝蛸皇女を太子に嫁合わせているのは解せない。 三)隋へ親書、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや云々」は、皇帝が書き送る文章であり、これを書けるのは自ら始皇帝の生れ変りと自称していた秦河勝以外に考えられない。 四)太子建立といわれている七カ寺は、河勝とその妃が建立を命じた。 五)太子の子「山背大兄王」(やましろのおおえのきみ)の山背は、奈良からみて京都、つまり、秦一族二万人の国造を意味する。 六)そもそも、広隆寺にある弥勒菩薩は、太子が河勝に与えたものとなっているが、河勝自身が新羅から貰い受けたものだろう。百済傍系王の蘇我本宗家とは根っこから対立関係にあったと見なければならない。 七)推古七年に新羅と任那の使者が都に上ってきたとき、「秦造河勝、土部連莵に命じて、新羅の導者とす。」とあり、河勝が「連」に命じることができる地位にあったことを示す。 八)聖徳太子像と広隆寺の秦河勝像は顔つきがそっくりである。 聖徳太子は夢殿を抜けると秦河勝に変身していた?これは別の機会に回す。(*以下2004/07加筆)

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にわか神道三六屋からす一家の神道墓、奥都城(おくつき)ができました。奥都城、奥津城は共に「おくつき」と読み、神道で「お墓」の意味です。神道のお墓の竿石は、通常は細長い角柱型で頂上部は四面を三角形に切った角兜巾(かくときん)型です。 これは、「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ、三種の神器の一つ)を表しております。にわか神道三六屋からす一家の神道墓の竿石は上方にいくに従い細くする軍人墓型とし、四面を三角形に切った角兜巾は完全なピラミッドとしました。○○家は入れません。三六屋からす一家につながる全ての魂のよりどころ、三六屋からす一家の神社です。仏教徒がにわか神道になるのですから、これぐらいインパクトのある竿石が必要です。





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天1=2、2=2,3=2,123=6、人4=1、5=1、6=0,7=0、8=1,45678=3、地9=1,10 =3、910=4。日6月3星4,
天+1=日=天=6、6の現人神。67欠け、
 十3年(星)十2月(月)1日(日)。日が1で、月が十2、星十3で完全な生命の樹,十は0ですので321。月日の121は、正6面体ブロック4つで凸の形になって、御輿、三社造りとなっています。天地人634、日月星634。総数13で平成13年に符合。日=天で天照大神。








 中心に言霊スが入ります。音図の向って右半分を主基田すきたと呼びます。
 音図の向って左半分の上段はハマヤラワとなり、音の左半分の真中に言霊ユがはいります。そこでこの音図の半分を悠紀田ゆきたと呼びます。宮中に於いては毎年新嘗祭にいなめさいに、また、天皇一代に一度の即位の時の大嘗祭に主基・悠紀の田を定め、そこから獲れる新米の稲穂を天皇自ら主基田の月読命と悠紀田の須佐男命に言霊を表わす稲穂イの名なの穂ほ を献じて、ここ三千年の月読と須佐男の対立の構図が実は皇祖皇宗の物質科学探究のための言霊学による経綸なのである事を告げ、「物質科学文明成就の暁には天皇自ら言霊布斗麻邇の原理を以って、三千年の月読・須佐男の対立に終止符を打ち、第三の文明時代建設を親裁するぞ」との予告なのです。

悠紀と主基
大嘗祭が行われる年には、まず、所司(官庁の役人)が、その祭に供える稲を出す斎田を選ぶため、悠紀(ゆき)・主基(すき)の国・郡を卜定(ぼくじょう)する。悠紀・主基の国を斎国(いつきのくに)という。悠紀は東日本、主基は西日本から選ばれ、畿内の国から選ばれたことは一度もない。中世以降は、近江国が悠紀、丹波国と備中国が交互に主基とされ、その国の中で郡を卜定した。








東京スカイツリー 高さ世界一の634メートル(ム6サ3シ4)、



美智子皇后(みちこ、旧名:正田美智子(しょうだ みちこ)1934年(昭和9年)10月20日
地4458、人379、天9十2十、=434=11
天1=0、2=1,3=1,123=2、人4=2,5=1,6=0,7=1,8=1,45678=5、地9=2,10=2,910=4、日4月4星3、
つぐのみや、みちこ
天9十2十、地27238、人379=天4人3地5=12。
天1=0、2=3,3=2,123=5、人4=0,5=0,6=0,7=2,8=1,456783、地9=2,10=2,910=4、日4月5星3、1456欠け。

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