○稚日女尊(ワカヒルメノミコト)がいた葦原中津国とは、どこか?大和から熊襲征討に出向いた皇軍(みいくさ)が、卑弥呼、武内宿禰とともに反乱軍となって戻ってきた。びっくりしたのが大和。つまるところ、葦原中国は大和の別名にすぎなかった。
其の一
書紀の巻一の「葦原中国に保月神ありと聞く」という天照大神が言った下りからは、多くの人々が保月神が出雲にいたと解釈しているようだ。しかし、保月神が丹生都比売に比定される以上、丹生族の痕跡がないところに葦原中国はない。・すると、これは大和に程近い「風鑪」(ふうろ)がたくさんあった(水銀の産地だった)吉野郡に比定できる。
其の二
書紀巻二「一書に曰はく、天照大神が天稚彦にみことのりしてのたまわく、「豊葦原中国は、これ我が児の王たるべき国なり。然れど慮(おもい)みるに、残賊強暴横(ちはやぶる)悪しき神ども有り」
また、「葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みつほ)の国は、是、我が子孫の王(きみ)たるべき地なり」とも、のたまい、葦原中国には天照大神の邪魔をしている悪しき神どもがいた処ということになる。
「遂に皇孫(すめみな)天津彦彦火瓊々杵尊を立てて、葦原中国の主(きみ)とせむと欲す。然も彼の地に、多に蛍火の輝く神、および蝿声(さばえな)す邪しき神有り」・・・紀神代9
「天照大神、それ葦原中国はなお、さやげり(騒々しい)なり。汝また往きて征て」につながり、天照大神が討伐を命じたのは武甕雷神(たけみかづちのかみ)、悪しき神どもとは、「天照大神、弟の悪しき心あらむと疑ひたまひて、兵を起こして・・・」、討伐されるのは「兄猾」(えうかし)と「弟猾」(おとうかし)の兄弟王である。
古事記では、「今、葦原中国を平け訖へぬと白せり。故、言依さしたまひし随(まにま)に、降(くだ)りまして知らしめせ」・・・・と、太子(ひつぎのみこと)は辞退したので、「日子番(ひこほ)の邇邇藝(ににぎ)命に「この豊葦原水穂の国は、汝知らさむ国ぞと言依さしたまふ。故、命の随に天下るべし」となっている。
記紀ともに、葦原中国の王となったのはニニギノミコトである。
ここに至って、天照大神は、誰であるのかもう明らかである。また、兄猾(うえかし)が血祭られたのは宇陀である。
ニニギをスメラミコトにするため天照大神が兵をもって、敵を討ったのが吉野、高市、宇陀周辺、現在の桜井市を中心に、吉野郡を包みこんだ一帯。結局、葦原中国とは倭(やまと)と同じ。
葦原は、三輪山の麓の笠縫邑周辺から来た地名だろう。かつて茅の群生する湿地帯だった。大小の沼池と水路があり、山から見れば、所々の水面(みずも)がきらきらと光って美しかった。往来は、小舟で行ったり来たりしたほうが多かった。この湿原に卑弥呼は産まれ育った。そこは、今は茅原という地名になっている。地元の人はかつて笠縫の一帯は湿地で茅が豊富だったという。さて、葦(あし)と、茅(ちがや)とは違う。葦は二メートルにもなるが、茅は60cmしか高さがない。茅・白茅(ちがや)は、イネ科の多年草で、軟らかい銀毛のある穂をつける。穂を「つばな」「ちばな」という。葦原水穂国の「水穂」とは茅(かや)の穂のことだろう。兄猾(うえかし)が屍(しかばね)から流した血にかけて、その場所を「血原」(ちはら)という・・・というのは茅原(ちはら)に掛けたのではないだろうか。