中世の摩多羅神は、秦ノ河勝になっていた!!!
摩多羅神は、叡山では、常行三昧堂の背面に勧請され、祭られた。背面にまつられたことから「後戸の神」(うしろどのかみ)との別名がついている。摩多羅神は浄土経典と念仏を護持し、念仏会が修されるときに後戸で修行者を護持するとの誓願によっている。「後戸」とは、仏壇の後方にある戸のことであるが、背後でその神力を発揮すると言う意味では根本的な存在である。
摩多羅神は、叡山では、常行三昧堂の背面に勧請され、祭られた。背面にまつられたことから「後戸の神」(うしろどのかみ)との別名がついている。摩多羅神は浄土経典と念仏を護持し、念仏会が修されるときに後戸で修行者を護持するとの誓願によっている。「後戸」とは、仏壇の後方にある戸のことであるが、背後でその神力を発揮すると言う意味では根本的な存在である。
当の「後戸の神」が、下の図版。 (厨子のなかに納めれた摩多羅神像) (中世日本の秘境的世界「異神」口絵) 右手に持った鼓(つづみ)を打ちながら歌う座像。袂(たもと)が跳ねあがって、今、まさに鼓を叩いているといった状態を表現している。これは鼓を打ちながら、謡(よう)を奏でている瞬間である。顔の表情は笑っており、ユーモラスで、陽気でさえある。それは、まさしく、猿楽を興じてる姿で、実に活き活きとしている。「されば、鬼畜の振舞いも仏果の荘厳も、心念舞楽の内にあり。」(玄旨帰命壇伝記)と、この摩多羅神が舞楽を象徴したものであるとする。さて、後述の秦河勝(はたのかわかつ)は、甲楽の祖と言われている。このことから、この神体像=摩多羅神は、なんと『秦ノ河勝』のことであった。 秦河勝は広隆寺創建し、かつ、大避神社を勧請したとも言われる。摩多羅神の中身は、びっくりなことに、秦河勝なのだろうか。わけしりに語るものでもなく、そう伝え聞いている人が太秦(うずまさ)には多い。すると、牛祭は、なんと秦ノ河勝を祭神とする祭となる。面白いことに、こうなると牛祭は広隆寺の起源祭となってくる。河勝の菩提寺であることはもちろんだが、広隆寺は、秦河勝自身が建立したのである。太秦寺(うずまさでら)が書紀に最初に登場する名前である。