天の岩戸開きとは固く閉ざされた石室から天照大御神と云う燦然たる光りの女神が出現すると云うおとぎ話ではない。それは神話として脚色された比喩であり呪示である。岩戸のイハは五十葉(いは)であって、すなわち五十音言霊布斗麻邇を意味する。今まで述べた如く布斗麻邇は一万年昔人類が完成し、三千年前までは普く世界に用いられていたが、その後今日まで全世界にその運用を停止されていたところの人類の精神的財産であり、その精神文明の完成された原理である。それは五十個の音声を以て組立てられた至極簡単な原理であるが、それだけに却って底知れぬほど深遠微妙なものであり、その運用は無限に複雑であり然も正確である。
布斗麻邇は世界のすべての宗教の共通の奥義であり、宝珠と云われる通り人類のすべてが渇仰する最高の福祉の淵源である。やがてその布斗麻邇が世界に全貌を現わす時が来る。高天原日本自体の直接の責任に係る所の精神文明に関する皇祖の経綸は予定通り進捗している、像方末法の機関は既に終了して、新しい正法の時代に入った。すでに布斗麻邇の学者は起き上がって崇神天皇以来二千年間秘められていた古き伝統を知性内部に復元しつつある。
岩戸開きはすなわち仏陀の出涅槃である。涅槃(ニルバナ)とは暗黒の義であるが、その元の意味は粘土盤文字(泥盤・泥日)と云うことをもじってある漢字訳があって、生身の仏陀が釈迦牟尼佛以後はこの世に跡を絶って、その言葉が経典の文字としてのみ存在することが入涅槃の意義である。これを「声字即実相、文字即涅槃」と云う。五十音の麻邇は法華経の云う一切種智であり、如意宝珠であり、佛所護念である。その五十音の一切種智の曼荼羅としての仏陀語の原典の粘土盤文字が再び世界に現われて、声学、言語として活用されること、即ち麻邇を把握運用する人間が世界に出現することが仏陀の出涅槃下生である。
再臨の救世主キリストは人の子である。その人の子は神の小羊であり、その花嫁として万国の民を医す生命の城の生命の樹の葉の原理をもたらす人である。生命の樹の葉は生命の楽園であるエデンを構成する神の律法(おきて)であり、その「律法と予言者を成就」するために来る者が再臨のキリストである。そしてその律法とはモーセの表十戒裏十戒であり、すなわち契約の箱の中のヘブライの三種の神宝である。その三種の神宝とは高天原の三種の神器そのものであることは既に説いた。
岩戸隠れの始まり2010/3/1
天岩戸(あまのいわと)とは、日本神話に登場する、岩でできた洞窟である。天戸(あまと)、天岩屋(あまのいわや)、天岩屋戸(あまのいわやと)ともいい、「岩」は「石」と書く場合もある。
布斗麻邇は世界のすべての宗教の共通の奥義であり、宝珠と云われる通り人類のすべてが渇仰する最高の福祉の淵源である。やがてその布斗麻邇が世界に全貌を現わす時が来る。高天原日本自体の直接の責任に係る所の精神文明に関する皇祖の経綸は予定通り進捗している、像方末法の機関は既に終了して、新しい正法の時代に入った。すでに布斗麻邇の学者は起き上がって崇神天皇以来二千年間秘められていた古き伝統を知性内部に復元しつつある。
岩戸開きはすなわち仏陀の出涅槃である。涅槃(ニルバナ)とは暗黒の義であるが、その元の意味は粘土盤文字(泥盤・泥日)と云うことをもじってある漢字訳があって、生身の仏陀が釈迦牟尼佛以後はこの世に跡を絶って、その言葉が経典の文字としてのみ存在することが入涅槃の意義である。これを「声字即実相、文字即涅槃」と云う。五十音の麻邇は法華経の云う一切種智であり、如意宝珠であり、佛所護念である。その五十音の一切種智の曼荼羅としての仏陀語の原典の粘土盤文字が再び世界に現われて、声学、言語として活用されること、即ち麻邇を把握運用する人間が世界に出現することが仏陀の出涅槃下生である。
再臨の救世主キリストは人の子である。その人の子は神の小羊であり、その花嫁として万国の民を医す生命の城の生命の樹の葉の原理をもたらす人である。生命の樹の葉は生命の楽園であるエデンを構成する神の律法(おきて)であり、その「律法と予言者を成就」するために来る者が再臨のキリストである。そしてその律法とはモーセの表十戒裏十戒であり、すなわち契約の箱の中のヘブライの三種の神宝である。その三種の神宝とは高天原の三種の神器そのものであることは既に説いた。
岩戸隠れの始まり2010/3/1
天岩戸(あまのいわと)とは、日本神話に登場する、岩でできた洞窟である。天戸(あまと)、天岩屋(あまのいわや)、天岩屋戸(あまのいわやと)ともいい、「岩」は「石」と書く場合もある。
神話での記述 [編集] 古事記 [編集]誓約によって身の潔白を証明したスサノオは、そのまま高天原に居座った。そして、田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らしたりの乱暴を働いた。他の神はアマテラスに苦情をいうが、アマテラスは、「考えがあってのことなのだ」とスサノオをかばった[1]。しかし、アマテラスが機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、スサノオは機屋の屋根に穴を開けて、そこから皮を剥いだ馬を落とし入れ、一人の天の服織女が驚いて梭(ひ)で陰部を刺して死んでしまった。ここにきて、アマテラスはスサノオの行動に怒り、天岩戸に引き篭ってしまった。高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した[2]。
日本書紀 [編集]スサノオが機屋に馬を投げた際、アマテラス自身が驚いて梭で傷ついたとある。第一の一書では稚日女尊(ワカヒルメ)が梭で傷ついて死んだとなっている。ワカヒルメはオオヒルメすなわちアマテラスの分身であり、スサノオの行為によってアマテラスが死んだというのが元々の伝承ではないかと考えられる。第二の一書では、アマテラスが怒って岩屋に隠れたのは、スサノオが神殿に糞をし、アマテラスが気付かずにそれに座ってしまったためとしている。