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時が来て言霊布斗麻邇の原理の自覚者達は自らの発見した心の究極の原理・法則を運用・活用してこの地球上に理想世界を建設しようと思い立ちました。霊知り(聖)の集団はアジアの高原地帯から今の中国を通り、朝鮮半島を過ぎて更に進みました。古事記に「ここに■肉(そじし)の韓国を笠沙之前(かささのみさき)に求(ま)ぎ通りて詔りたまはく、此地(ここ)は朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞ甚(い)と吉き地と詔りたまひて……」とありますから、朝鮮半島を通って日本の九州地方に来たという事になりましょう。この事実を古事記・日本書紀の神話は「天孫降臨」と呼び、天空の高天原から皇祖の天照大神の孫神に当る邇々芸の命が九州の高千穂の峰に天降ったと記しています。
心の究極の法則を自覚した霊知り達がこの日本列島に天降ったといわれる時は何時だったのでしょうか。はっきりはしません。けれど今から約一万年乃至八千年位前という事は確かであります。日本到着後、聖達即ち私達日本人の大先祖がした最初の仕事は言霊原理に則り事や物の実相に名を付けた事であります。日本語の創造です。物や事の真実の姿に即して、一音一音が心の実相を示す言霊を結び合わせて名を付けたのですから、その名前や言葉は物や出来事の真実の有様をそのまま表現しています。概念の説明・解釈を必要としません。言葉がそのまま実相です。「惟神(かんながら)言挙げせぬ国」とは日本語の上述の意義を言ったものであります。
大先祖の霊知り達が次に取掛かった仕事は、物事の実相がそのまま表現されている言語が、更にそのまま通用して矛盾の起こらない社会即ち国家の建設です。日本国家の肇国はこうして行われました。日本国の誕生です。今から少なくとも八千年程前の事と推察されます。日本の国を肇めた人の名前を古事記は邇々芸(ににぎ)の命と呼びます。邇(に)とは二・似の意です。邇々(にに)とは「二次的な、更に二次的な」の意で、第三次的なの意となります。第一次の真理は言霊です。第二次的とは言霊を結ぶ事によって付けられた物事の名前です。第三次的な芸術(邇々芸)とは言霊原理によって名付けられた物事の名前が世の中に使われて矛盾が起こらない社会・国家・世界を建設・実現させる芸術の意となります。そのように言霊原理に則って人々が幸福に生活し、全体の調和が保たれる合理的な国家、世界の建設の創始者、またその意図の下に人類の文明創造を始めた責任者の名前を邇々芸の命と呼ぶのであります。
邇々芸の命と、その建設の意図を受け嗣ぐ霊知り達の努力によって、日本の国と世界に平和で心豊かな社会が築かれて行きました。現在世界各民族の神話が「神代」と呼んでいる平和豊饒な時代とは単なるユートピアなのではなく、人類の歴史に数千年にわたり実在し、存続した精神的理想の時代であったのです。この時代の日本国は「霊の本」(ひのもと)と呼ばれました。世界の政治の根本原理である布斗麻邇を保持して世界の中心となり、その上言霊原理より直接造られた日本語を以って生活を営む国の意であります。その法・教・政庁の最高責任者を天津日嗣天皇(アマツヒツギスメラミコト)と呼びました。心の先天構造から発する(天津)精神原理(日)を先祖より受け嗣ぎ、世界の人々の生命・使命(みこと)を総覧(スメラ)する人の意であります。
天津日嗣天皇の統べる日本国朝廷の道義政治の下に世界は平和な時代が続きました。天皇の系譜(王朝)である邇々芸(ににぎ)、日子穂々出見(ひこほほでみ)、鵜草葺不合(うがやふきあえず)の三王朝が相継ぐ約五千年の間精神文明の華が咲いた時代であります。その記述は「古事記と言霊」の歴史編を御覧下さい。この五千年間を人類の第一精神文明時代と呼びます。
精神文明時代の第三番目の鵜草葺不合王朝の中葉に到り、爛熟した精神文明の社会の中に漸くその時までとは違う風潮が起って来ました。物事を見る側、即ち主体を見つめる眼が、物事を外界として見る物質の方向に移って行く傾向が醸成され始め、進んでその外界の探求に興味を示す人が増して来たのであります。今より四千年程前の事と推定されます。それを主張する社会の中の勢力が次第に強くなって来ました。「心とは何ぞや」から「物質とは……」への関心の変動です。
この人類の精神の偏向を早く察知した日本の朝廷は、徐々に精神文化の日本より外国への輸出を減らして行き、終に今より三千年程前に到り、日本朝廷の人類文明創造の政治の宏謨が精神文明から世界を挙げて物質文明創造へと切り換える事が決定されたのであります。一足先に外国に於いて精神文明時代は終焉の幕が下ろされ、二千六百余年前、日本に於いても新しい神倭王朝の創設となり、六百年後、神倭(かんやまと)王朝第十代崇神天皇の時、精神文明創造の原器であった言霊布斗麻邇の原理の象徴である三種の神器が天皇の座右から離され、伊勢神宮の神体として信仰の対象となって祭られたのであります。
物質科学文明の創造促進のための精神土壌は弱肉強食の生存競争社会です。そのための方便として第一精神文明時代を築き上げた精神原理布斗麻邇は政治への適用が廃止されました。古事記の神話にありますように天照大神は岩戸に隠れ、世の中は真っ暗になりました。ですから物質文明即ち「物質とは何か」が解明された暁には、精神原理布斗麻邇は再び世の中に復活されなければなりません。人類の第二物質科学文明完成の時が来た時、第一精神文明の原理が人間の意識に復活し、それら心物双方の二大原理が協調する人類の第三文明時代の到来を宏謨に入れての上の朝廷の決定であるからです。
崇神天皇以後二千年の歳月を経て、言霊の原理が再び人々の意識の表面に浮かび上がって来る事に備えて、日本の朝廷に於いて種々の方策が実行に移されました。それ等の施策については「古事記と言霊」の「歴史編」に詳しく示されています。言霊原理隠没から七百年が過ぎた奈良時代の初め、それ等施策の最後のものとして、ここにお話しております「古事記」並びに「日本書紀」の編纂が行われたのであります。これは私達日本人の古代の祖先の霊知り達、日本神道ではこの人達を皇祖皇宗と尊んでいますが、この人達が二千年後の子孫の日本人のために遺した深謀遠慮の賜(たまもの)であります。物質科学文明創造の促進のための方便である生存競争時代に於いては、言霊原理は日本並びに世界の人々の忘却の内に閉じ込めておかなければなりません。けれど忘却とは喪失ではありません。時が来れば必ず民族の意識上に帰って来なければなりません。大本教祖のお筆先は「知らしてはならず、知らさいではならず、神はつらいぞよ」と表現していますが、この「知らせてはならず、知らさいではならず」の苦肉の一策が古事記の上つ巻の神話(神々の物語)となって現れたのであります。古事記の編者、太安万侶は勅命により歴史書の巻頭の上つ巻に歴史とは直接関係のないような神話を飾りました。そして途轍もない歴史書を作り上げました。……
もうお話が此処まで来れば、大方の読者はお気付きになった事でしょう。古事記の上つ巻の神話は「人間の心とは何か」の完全解答である言霊布斗麻邇の原理を神々の物語という謎々の形式で示した「人間」そのものの文明創造の歴史の序文なのです。「蟹はその甲羅に似せて穴を掘る」といわれます。人間はその天与の性能という甲羅通りに歴史を創造します。太安万侶は「人間とは何ぞや」の全容である言霊の原理を神話という謎で示し、その人間精神の自己発展の記録としての歴史を書こうと意図したのであります。
以上、「古事記と言霊」講座開始に当って、「古事記」と「言霊」双方について予め簡単な解説を申し上げました。そのどちらの説明も現在の国文学者や歴史学者が聞いたら、直ちに空想物語として一笑に附してしまうに違いないでしょう。にも拘わらずこの解説は真実そのものなのであります。読者の皆様がこれから始まる本講座の話を成る可く先入観なしにお聞き下さり、御自分の心の姿と比べてお考え下さるならば、太安万侶の撰上した古事記の神話の指し示す人間の心の全内容とその動き、またその原理によって創造されつつある人類の歴史の実態が掌にとる如く明らかになって来ることでしょう。
時が来て言霊布斗麻邇の原理の自覚者達は自らの発見した心の究極の原理・法則を運用・活用してこの地球上に理想世界を建設しようと思い立ちました。霊知り(聖)の集団はアジアの高原地帯から今の中国を通り、朝鮮半島を過ぎて更に進みました。古事記に「ここに■肉(そじし)の韓国を笠沙之前(かささのみさき)に求(ま)ぎ通りて詔りたまはく、此地(ここ)は朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞ甚(い)と吉き地と詔りたまひて……」とありますから、朝鮮半島を通って日本の九州地方に来たという事になりましょう。この事実を古事記・日本書紀の神話は「天孫降臨」と呼び、天空の高天原から皇祖の天照大神の孫神に当る邇々芸の命が九州の高千穂の峰に天降ったと記しています。
心の究極の法則を自覚した霊知り達がこの日本列島に天降ったといわれる時は何時だったのでしょうか。はっきりはしません。けれど今から約一万年乃至八千年位前という事は確かであります。日本到着後、聖達即ち私達日本人の大先祖がした最初の仕事は言霊原理に則り事や物の実相に名を付けた事であります。日本語の創造です。物や事の真実の姿に即して、一音一音が心の実相を示す言霊を結び合わせて名を付けたのですから、その名前や言葉は物や出来事の真実の有様をそのまま表現しています。概念の説明・解釈を必要としません。言葉がそのまま実相です。「惟神(かんながら)言挙げせぬ国」とは日本語の上述の意義を言ったものであります。
大先祖の霊知り達が次に取掛かった仕事は、物事の実相がそのまま表現されている言語が、更にそのまま通用して矛盾の起こらない社会即ち国家の建設です。日本国家の肇国はこうして行われました。日本国の誕生です。今から少なくとも八千年程前の事と推察されます。日本の国を肇めた人の名前を古事記は邇々芸(ににぎ)の命と呼びます。邇(に)とは二・似の意です。邇々(にに)とは「二次的な、更に二次的な」の意で、第三次的なの意となります。第一次の真理は言霊です。第二次的とは言霊を結ぶ事によって付けられた物事の名前です。第三次的な芸術(邇々芸)とは言霊原理によって名付けられた物事の名前が世の中に使われて矛盾が起こらない社会・国家・世界を建設・実現させる芸術の意となります。そのように言霊原理に則って人々が幸福に生活し、全体の調和が保たれる合理的な国家、世界の建設の創始者、またその意図の下に人類の文明創造を始めた責任者の名前を邇々芸の命と呼ぶのであります。
邇々芸の命と、その建設の意図を受け嗣ぐ霊知り達の努力によって、日本の国と世界に平和で心豊かな社会が築かれて行きました。現在世界各民族の神話が「神代」と呼んでいる平和豊饒な時代とは単なるユートピアなのではなく、人類の歴史に数千年にわたり実在し、存続した精神的理想の時代であったのです。この時代の日本国は「霊の本」(ひのもと)と呼ばれました。世界の政治の根本原理である布斗麻邇を保持して世界の中心となり、その上言霊原理より直接造られた日本語を以って生活を営む国の意であります。その法・教・政庁の最高責任者を天津日嗣天皇(アマツヒツギスメラミコト)と呼びました。心の先天構造から発する(天津)精神原理(日)を先祖より受け嗣ぎ、世界の人々の生命・使命(みこと)を総覧(スメラ)する人の意であります。
天津日嗣天皇の統べる日本国朝廷の道義政治の下に世界は平和な時代が続きました。天皇の系譜(王朝)である邇々芸(ににぎ)、日子穂々出見(ひこほほでみ)、鵜草葺不合(うがやふきあえず)の三王朝が相継ぐ約五千年の間精神文明の華が咲いた時代であります。その記述は「古事記と言霊」の歴史編を御覧下さい。この五千年間を人類の第一精神文明時代と呼びます。
精神文明時代の第三番目の鵜草葺不合王朝の中葉に到り、爛熟した精神文明の社会の中に漸くその時までとは違う風潮が起って来ました。物事を見る側、即ち主体を見つめる眼が、物事を外界として見る物質の方向に移って行く傾向が醸成され始め、進んでその外界の探求に興味を示す人が増して来たのであります。今より四千年程前の事と推定されます。それを主張する社会の中の勢力が次第に強くなって来ました。「心とは何ぞや」から「物質とは……」への関心の変動です。
この人類の精神の偏向を早く察知した日本の朝廷は、徐々に精神文化の日本より外国への輸出を減らして行き、終に今より三千年程前に到り、日本朝廷の人類文明創造の政治の宏謨が精神文明から世界を挙げて物質文明創造へと切り換える事が決定されたのであります。一足先に外国に於いて精神文明時代は終焉の幕が下ろされ、二千六百余年前、日本に於いても新しい神倭王朝の創設となり、六百年後、神倭(かんやまと)王朝第十代崇神天皇の時、精神文明創造の原器であった言霊布斗麻邇の原理の象徴である三種の神器が天皇の座右から離され、伊勢神宮の神体として信仰の対象となって祭られたのであります。
物質科学文明の創造促進のための精神土壌は弱肉強食の生存競争社会です。そのための方便として第一精神文明時代を築き上げた精神原理布斗麻邇は政治への適用が廃止されました。古事記の神話にありますように天照大神は岩戸に隠れ、世の中は真っ暗になりました。ですから物質文明即ち「物質とは何か」が解明された暁には、精神原理布斗麻邇は再び世の中に復活されなければなりません。人類の第二物質科学文明完成の時が来た時、第一精神文明の原理が人間の意識に復活し、それら心物双方の二大原理が協調する人類の第三文明時代の到来を宏謨に入れての上の朝廷の決定であるからです。
崇神天皇以後二千年の歳月を経て、言霊の原理が再び人々の意識の表面に浮かび上がって来る事に備えて、日本の朝廷に於いて種々の方策が実行に移されました。それ等の施策については「古事記と言霊」の「歴史編」に詳しく示されています。言霊原理隠没から七百年が過ぎた奈良時代の初め、それ等施策の最後のものとして、ここにお話しております「古事記」並びに「日本書紀」の編纂が行われたのであります。これは私達日本人の古代の祖先の霊知り達、日本神道ではこの人達を皇祖皇宗と尊んでいますが、この人達が二千年後の子孫の日本人のために遺した深謀遠慮の賜(たまもの)であります。物質科学文明創造の促進のための方便である生存競争時代に於いては、言霊原理は日本並びに世界の人々の忘却の内に閉じ込めておかなければなりません。けれど忘却とは喪失ではありません。時が来れば必ず民族の意識上に帰って来なければなりません。大本教祖のお筆先は「知らしてはならず、知らさいではならず、神はつらいぞよ」と表現していますが、この「知らせてはならず、知らさいではならず」の苦肉の一策が古事記の上つ巻の神話(神々の物語)となって現れたのであります。古事記の編者、太安万侶は勅命により歴史書の巻頭の上つ巻に歴史とは直接関係のないような神話を飾りました。そして途轍もない歴史書を作り上げました。……
もうお話が此処まで来れば、大方の読者はお気付きになった事でしょう。古事記の上つ巻の神話は「人間の心とは何か」の完全解答である言霊布斗麻邇の原理を神々の物語という謎々の形式で示した「人間」そのものの文明創造の歴史の序文なのです。「蟹はその甲羅に似せて穴を掘る」といわれます。人間はその天与の性能という甲羅通りに歴史を創造します。太安万侶は「人間とは何ぞや」の全容である言霊の原理を神話という謎で示し、その人間精神の自己発展の記録としての歴史を書こうと意図したのであります。
以上、「古事記と言霊」講座開始に当って、「古事記」と「言霊」双方について予め簡単な解説を申し上げました。そのどちらの説明も現在の国文学者や歴史学者が聞いたら、直ちに空想物語として一笑に附してしまうに違いないでしょう。にも拘わらずこの解説は真実そのものなのであります。読者の皆様がこれから始まる本講座の話を成る可く先入観なしにお聞き下さり、御自分の心の姿と比べてお考え下さるならば、太安万侶の撰上した古事記の神話の指し示す人間の心の全内容とその動き、またその原理によって創造されつつある人類の歴史の実態が掌にとる如く明らかになって来ることでしょう。