日本は言霊、数霊の国です。蘇民将来、八百万の神


貞観2年(860)紀氏大安寺僧行教、山城男山に八幡神を勧請(石清水八幡宮)、平安京鎮護の神とする。



 八幡宮が 漸(ようや)く全国に定着し多くの八幡社が伝播(でんぱ)したのは平安時代で、この時代の活動は奈良時代の巨大さはないが、内部を固め、思想的にも一つの方向を見出した。朝廷との関係は「伊勢使」と並ぶ「 宇佐使(うさづかい) 」として 荘園 経済を基本に西国一の大領主として、豊前豊後を中心に多くの文化財を遺(のこ)し、東北の平泉文化に対し九州の宇佐文化として日本の王朝文化の特色を示した。
〈 比賣(ひめ)神宮寺の建立〉
 大神社女(おおがのもりめ) 、田麻呂(たまろ)という八幡宮司祭者が失敗したのは天平勝宝6年(754)であったが、 大神氏に代わって辛嶋勝(からしまのすぐり)氏 が 禰宜(ねぎ)、宇佐公池守(いけのもり) が宮司となって八幡宮を守った。その後も朝廷の祈請祈願は続いたが、天平神護元年(765)八幡宮は 大尾山に遷座(せんざ)した。宝字8年(764)中央では藤原仲麻呂(なかまろ)が誅せられると、道鏡が大臣禅師となり、称徳(しょうとく)天皇が重祚(ちょうそ)され、神護元年(765)には彼は太政大臣禅師になった。その時八幡宮は大尾山に遷座したが翌年 宇佐氏の旧氏神(うじがみ) 比(ひめ)神に封600戸を奉った。以後この封戸で宇佐宮を維持することになる。その10月には 大神田麻呂、杜女を召換し、その翌年比賣神宮寺( 中津尾寺 )を建立する。その翌年ころから景雲3年(769)、道鏡天位託宣(たくせん)事件が起こり、その翌年称徳天皇は崩御、道鏡は左遷となる。
〈八幡大 菩薩(ぼさつ)の誕生〉
 奈良時代の末期のあわただしさで大神氏が失墜すると宇佐辛嶋氏は着々比賣神を中心に権威を回復するが、天応元年(781) 桓武(かんむ)天皇が即位、宇佐に和気(わけ)氏を遣わしているが、この時八幡大菩薩の号を奉ったらしい。こうして八幡大菩薩になると延暦元年(782) 小椋(おぐら)山に還座となっている。つまりこれまでのあらあらしい八幡神は 擬死(ぎし)し、いわば大尾山を産屋(うぶや)として八幡大菩薩は誕生し、再び小椋山へ現れた。再生したということであろう。大菩薩とは永遠に衆生済度に徹することである。
〈八幡宮の伝播〉
 大菩薩は伝道修行が目的となる。弘仁5年(814) 最澄(さいちょう) は八幡宮に参詣(さんけい)し、大神、宇佐の二氏が 大宮司(だいぐうじ) ということが多くなる。同14年には 大帯姫(おおたらしひめ) が併祀されるし、天長6年(829)には 弥勒寺(みろくじ) 講師(こうじ)が設けられた。その翌年叡山の 金亀(こんき) が 参篭(さんろう)し、 豊後国分寺 の鎮守をかねて 由原(ゆすはら)に勧請(かんじょう)し、由原八幡宮 が生まれた。これが始まりとなって、貞観元年大安寺行教(ぎょうきょう) が、山城(やましろ)石清水に八幡神を勧請する。これらの八幡宮は完全に宮寺化した施設で、神社でも寺院でもない新しい神社であった。その祭祠官は俗僧に近い別当という 僧侶(そうりょ)でも神官でもない司祭者で、由原宮では宮師といい、石清水では別当(べっとう)というのである。ここに八幡宮発展の端緒が始まり、その後の宇佐宮、弥勒寺領荘園には鎮守の形で八幡宮が全国に伝播して行った。


柞原八幡宮 大分市上八幡。旧国幣小社(現、別表神社)。二葉山とも八幡柞原山ともいう市街地西方の山の麓にある。「いすはら」とも「ゆすばる」とも呼び、由原とも書く。天長四年(八二七)延暦寺の僧金亀が創立し、国司の奏聞を経て官社に加えられた。宇佐神宮より勧請した古社で、国府所在地の八幡宮である。豊後国の一の宮と称し、嘉応三年(一一七一)の古文書に初めて見える。しかし一の宮の地位については西寒多神社と近世まで論争があった。中世以降は源頼朝の禁制、範頼の奉幣等があり、大友氏ら歴代領主の崇敬篤く、豊後第一の社として上下の崇拝を受けた。社記によれば宇佐神宮同様三三年ごとの造替の制があり、神宮寺は金亀の法脈を伝える金蔵院であった。大宮司・宮師・権宮師など祀職が配置され、四季の祭事に当った。祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后である。
 本殿は朱漆を主調に彩色され、槍皮葺の八幡造。申殿・拝殿・楼門と続き、東南の宝殿には春宮・若宮など末社が祀られている。楼門の南に南大門が建ち、樟の巨木に囲まれている。樟は天然記念物に指定され、社伝では、八流の自幡がこの樟にかかっているのを見て、金亀が神験として祀ったという。南大門は明治初年(一八六八)の建築であるが、彫刻が多く日暮門の名がある。例祭三月一五日、初卯祭という。九月一日より一一日まで末社武内社の神輿が賀来神社に神幸する。この間賀来の市がたって賑わう。また九月一四日より二三日まで浜の市神幸祭、仲秋祭とも呼ぶ放生会の神事があり、神興は生石浜に向かう。渡り拍子−笛、太鼓の囃子−を従え、三基の神興に出役数百人が加わる。浜に大のぽり二本を立て、浜の市が立つ。ここで磯良舞を奏する。大分地方には祭市が立つのが普通で、これを日本三大市の一つという。色紙餅、一文人形など独特の売物がある。社宝に金銅仏一体、太刀三口の重要文化財の外、由原八幡宮縁起二巻(『続群書類従』所収)など古文書類が多い。




〈神領、寺領荘園〉
 奈良時代からずっと続き、鎌倉時代しばらく中断し再び近世に復活した宇佐使も朝廷と八幡神を結ぶ重要な神事であり、また実際上の宗教と政治に大きい問題機能を発揮してきた。八幡神宮は天平13年(740)の封戸20戸に始まり、同18年に聖武天皇は封400戸水田20町、天平勝宝2年(750)には大神に封800戸 位田(いでん)80町、比 神に封600戸 位田60町が寄せられ伊勢大神宮を凌(しの)ぐ神社となった。しかし同7年一旦国庫に返却したが、天平神護2年(766)比賣神封戸600戸が復された。しかし『 新抄格勅符抄』によると、延暦17年(798)には大神分800戸も復されて1,410戸になっている。その後大神分は「 本御荘(ほんおんしょう)十八本荘」として豊前 豊後 筑前 筑後 肥前国に夫々散在している。それに対して比 神分600戸は「 三国七郡御封田 」といい、豊前410畑(上毛 下毛宇佐)、豊後115畑(大野 国東)、日向115畑( 児湯(こゆ) 臼杵)となり、荘園制時代の、「十郷三ヵ荘」となる。十郷は上毛 下毛 宇佐国東に分布しこれを境内郷といい特に宇佐郡4郷は内封4郷といわれた。また同時代に寄進 開発 買得による荘園も多くなりこれを「常見名田(つねみみょうでん) 」または「新荘」と称し、宇佐宮より東を「以東新荘」西を「以西新荘」と称した。成立時期分明の荘は82か所で、成立年不詳の荘名を加えると122か所、弥勒寺領114か所合計236か所、到津(いとうず)記録によると宇佐宮領16,000町、弥勒寺領8,000町歩とある。その後武士に横領され、室町時代末期には豊前 豊後 筑前に辛うじてわずかに留めたが、豊臣秀吉に没収された。
<八幡神道の成立>
鎌倉時代に荘園は侵略され、昔日の面影は全くなくなる。こうした時代に入ると伊勢神宮では神道五部書を書いた。そのころ八幡宮では「八幡宮巡拝記」「東大寺八幡験記」「八幡愚童訓(乙)」、「宇佐託宣集」「八幡愚童訓(甲)」の五書が書かれた。宇佐では託宣集だけであるが、仏が神道に垂じゃく(すいじゃく)という形で護国愛民信仰を貫いている。いうならば、八幡大菩薩の究極が正直とか慈悲という形で神道宗教を成立させ、荘園の土地支配から宗教という人間支配へ転身した。(拙稿「八幡神道の成立」「豊日史学」第51巻1 2号)。
[中野 幡能]

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にわか神道三六屋からす一家の神道墓、奥都城(おくつき)ができました。奥都城、奥津城は共に「おくつき」と読み、神道で「お墓」の意味です。神道のお墓の竿石は、通常は細長い角柱型で頂上部は四面を三角形に切った角兜巾(かくときん)型です。 これは、「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ、三種の神器の一つ)を表しております。にわか神道三六屋からす一家の神道墓の竿石は上方にいくに従い細くする軍人墓型とし、四面を三角形に切った角兜巾は完全なピラミッドとしました。○○家は入れません。三六屋からす一家につながる全ての魂のよりどころ、三六屋からす一家の神社です。仏教徒がにわか神道になるのですから、これぐらいインパクトのある竿石が必要です。





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天1=2、2=2,3=2,123=6、人4=1、5=1、6=0,7=0、8=1,45678=3、地9=1,10 =3、910=4。日6月3星4,
天+1=日=天=6、6の現人神。67欠け、
 十3年(星)十2月(月)1日(日)。日が1で、月が十2、星十3で完全な生命の樹,十は0ですので321。月日の121は、正6面体ブロック4つで凸の形になって、御輿、三社造りとなっています。天地人634、日月星634。総数13で平成13年に符合。日=天で天照大神。








 中心に言霊スが入ります。音図の向って右半分を主基田すきたと呼びます。
 音図の向って左半分の上段はハマヤラワとなり、音の左半分の真中に言霊ユがはいります。そこでこの音図の半分を悠紀田ゆきたと呼びます。宮中に於いては毎年新嘗祭にいなめさいに、また、天皇一代に一度の即位の時の大嘗祭に主基・悠紀の田を定め、そこから獲れる新米の稲穂を天皇自ら主基田の月読命と悠紀田の須佐男命に言霊を表わす稲穂イの名なの穂ほ を献じて、ここ三千年の月読と須佐男の対立の構図が実は皇祖皇宗の物質科学探究のための言霊学による経綸なのである事を告げ、「物質科学文明成就の暁には天皇自ら言霊布斗麻邇の原理を以って、三千年の月読・須佐男の対立に終止符を打ち、第三の文明時代建設を親裁するぞ」との予告なのです。

悠紀と主基
大嘗祭が行われる年には、まず、所司(官庁の役人)が、その祭に供える稲を出す斎田を選ぶため、悠紀(ゆき)・主基(すき)の国・郡を卜定(ぼくじょう)する。悠紀・主基の国を斎国(いつきのくに)という。悠紀は東日本、主基は西日本から選ばれ、畿内の国から選ばれたことは一度もない。中世以降は、近江国が悠紀、丹波国と備中国が交互に主基とされ、その国の中で郡を卜定した。








東京スカイツリー 高さ世界一の634メートル(ム6サ3シ4)、



美智子皇后(みちこ、旧名:正田美智子(しょうだ みちこ)1934年(昭和9年)10月20日
地4458、人379、天9十2十、=434=11
天1=0、2=1,3=1,123=2、人4=2,5=1,6=0,7=1,8=1,45678=5、地9=2,10=2,910=4、日4月4星3、
つぐのみや、みちこ
天9十2十、地27238、人379=天4人3地5=12。
天1=0、2=3,3=2,123=5、人4=0,5=0,6=0,7=2,8=1,456783、地9=2,10=2,910=4、日4月5星3、1456欠け。

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