亡命人 秦人
http://home10.highway.ne.jp/ikko/Japanese/3_J.html
ここでは、「辰韓(秦韓)人と雑居していた」と書かれていることが重い意味を持つ。中国流民が辰韓人とは区別のつく進入者として見られていたことが明らかだ。馬韓は百済であるから、ここで秦の流民は慶尚南道に居住していた亡命流民で、後に土地を割譲されと見られる。これが加羅一帯である。
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「中国人は秦の乱に苦しみ、東方へ亡命してくるものが多かった。彼らは馬韓の東に進み、辰韓人と雑居していたが、その数が多く栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌った。」 (新羅本紀 前20年)
ここでは、「辰韓(秦韓)人と雑居していた」と書かれていることが重い意味を持つ。中国流民が辰韓人とは区別のつく進入者として見られていたことが明らかだ。馬韓は百済であるから、ここで秦の流民は慶尚南道に居住していた亡命流民で、後に土地を割譲されと見られる。これが加羅一帯である。
「辰韓は馬韓の東に在り、この耆老(きろう)が言うには、むかし亡命人らが秦の賦役逃れてこの地に入った。馬韓はその東に地を割いて彼らに与えた。そこには城柵があり、彼らの言語は馬韓とは同じではなかった。国を邦、賊を寇、行酒を行觴と言い、相呼ぶのに徒というがごときは、秦人に似ている。」
(魏志の辰韓条)
これは、亡命してきた秦人が、土着辰韓人の言語とは異なることの一端を説明している。 また、辰韓の中において、秦人は城柵を作っていたという意味は、 つまり、一族はかならず楼のなかで身を寄せあって暮らしていたということだ。 秦人は、城郭をつくりその中で集団生活をする慣習をもっていた。このことは、あたかもユダヤ人のがヨーロッパにおいてゲットーのなかで暮した習慣に似ている。秦人は結束力が強く、他国に移住しても城柵をめぐらして、土着の民とたやすく混血してゆくこともなく、土着文化に容易に溶けこまなかった集団だったといえよう。