日本は言霊、数霊の国です。蘇民将来、八百万の神

 ○北斗七星とは?


なぜ、摩多羅神の頭巾に北斗七星があるのだろうか。この神様がターラー女神であろうことは前章で紹介した。ターラーが星を意味することは明かだが、北斗七星とは直接結びつかない。多くの星々のなかで、北斗七星がもっともふさわしいということなら、いくら傍証をだしても、それは謎解きにはならない。そこには神秘的で驚くべき理由があるに違いない。


ひとびとはそこに広大な宇宙を見て、宇宙との関り合いを確認した。当時、人間の直感はそのまま霊感であった。徳の盛んな人の耳には、そこに「陰、陽、気」の織りなす流転のリズム、つまり「調」が聞こえたはずである。
 さて、真北に向かっておよそ35度の高さをみると、そこに明るい二等星がある。北極星である。その北極星から少し離れてに7個の明るい星が、ひしゃく(斗)の形に並んでいる。明るさはだいたい揃っていて、中央のデルタ星以外は2等星である。それが北斗七星である。 北斗七星はそもそも中国の学名で、日本では「七つ星」とか、「四三星」(しそうのほし)とか呼ばれていた。北極星は「一つ星」といっていた。この7つの星のさきっぽにあるエータ星をけんさき星といい、この位置で海上で時刻や方角を判じていた。この剣先星を破軍の星をもいわれ、この星の方角に兵を進めると必ずやぶれるといわれていた。四三の星を四三の剣ともいわれた。


 北斗七星は北極星のまわりを一日に一回転する。一時間におよそ15度づつ動く。昔の航海士たちは北斗七星のひしゃくの先っぽのけんさき星を見ては、子の刻(0:00)だ、丑の刻(2;00)だと時刻をはかることができた。北斗七星のけんさきは「北斗の針」とか「北の空の大時計」と呼ばれていた。
 北極星は時計で言えば針の中心軸であり、北斗七星は針先にあたる。北極星を中心点として天が回るので、北極星は古来「不動」を意味していた。天の中央に鎮座し満天の星々を統べる北極星を北辰といい、中国ではこの北辰の神名を太一(たいいつ)といった。そして、同時に天帝であった。


 さらに、原初の一点、元気をさして太一(太乙)ともいう。北極星において、マクロコスモスとミクロコスモスの両義性が現われてくる。

 「史記」の天官書では、天極星を「天帝」、神の常居(中宮)とする。屈曲した4つの星を、正妃、後宮の妃、周辺の12星を藩臣とし、「紫宮」または、「紫微宮」とした。北方が紫とされ、最貴の方位、最高の色とする。漢の武帝は北極星を太一神として、最も尊い神として崇拝した。道教の天空観は、最高の天の支配を北辰、北斗に置き、地上の皇帝をその支配と同一に見ていた。つまり、天の異変は、地上の異変のまえぶれと見なしていたのである。それゆえに、彗星などが現われると世の中の乱れる前兆として受け止めたのである。そこで、天文学は政の重要な情報でもあった。道教の天空観は、政(まつりごと)の支柱となっていた。北極星と北斗七星を軸にして中国の王権をささえていたのである。星宿と四神が描かれていたキトラ古墳・高松塚古墳には、すでに中国の帝王学がいかに日本に浸透していたかを証明している。


 こうした漢帝の政(まつりごと)は伊勢神宮の神事において、太一(北辰)を天照大神(あまてらすおおみかみ)、北斗は豊受大神(とようけのおおかみ)にみごとに習合しているように見受けられる。五穀豊穣を引き受けるのは豊受大神(外宮)。伊勢神宮別宮・伊雑宮(いざわのみや)での御田植祭の竹取り神事には天帝の別名、「太一」と書かれた軍配うちわ(俗称)が空中高く掲げられる。 
 神宮最大の神事である20年に一度の遷宮に関連した杣始祭(そまはじめまつり)にも太一の文字の幟(のぼり)がたつ。そのほかにも伊勢神宮の習俗ではこの太一の文字がさまざまなところに登場するという。太一とは、文字通り北極星である。


 神嘗祭(かんなめさい)は旧暦九月一六日(10/22 0:00)「子の刻」、一七日の「午の刻」(10/22 12:00)に行われ、北斗七星の剣先がそれぞれ真北、真南にある時に執り行われる。 宇宙(天)に聖なる構図が描かれている時刻を選んでいることになる。
 ついで、七月の二二日子の刻、二三日牛の刻でこんどは真西、真東をさすときに、月次祭(つきなめさい)が行われる。子の刻に剣先が四方にちょうど配した時そこで天地をつなぐわけである。北斗七星がみごとに秘儀として立ち現れてきたことには驚嘆せざるをいえない。それらは壇を宇宙大にした儀式ともいえる。摩多羅神が北斗七星と同一視すると、最高位の女神となってくる。


北斗七星と秦河勝

 中国では一般に古来から冥界は泰山にあり、死者の魂はすべてこの山に昇ると信じられていた。泰山府君とはこの霊山の冥界の主神をさす。太一神(北極星)と同格であり、封禅の祭は太一神の祭の礼式従っていた。中国では”五岳信仰”があり、東岳泰山、南岳衡山、西岳崋山、北岳恒山、中岳崇山、の五岳があった。なかでも東岳泰山は、五岳之長五岳独尊などと称され、最高位である。
 中国では、東方は特に尊ばれ、万物を生成する気が満ちているとされた。泰山府君、別名を東岳大帝とも言われる。東岳大帝、西岳大帝、中岳大帝、北岳大帝、南岳大帝を総称して五岳大帝という。その中の首が東岳大帝であった。人間の魂は死んでから泰山に行き、泰山府君に裁かれる。それゆえに、人間の貴賤、生死の時期を司るのである。泰山府君はエジプトのオシリスや、ペルシャのイマ、インドのヤマ、チベットのヤマ・ダルマラジャ、そして日本のスサノヲとよく似た存在だ。ともに、冥界を支配する主神である。泰山府君は仏教では焔摩天(Yama)とされる。焔摩天(えんまてん)、じつは水牛を乗り物にしている。 *東岳・泰山にある始皇帝の自文の碑文「思うに、治世の道は、天地とともに運行し、諸産はしきを得、すべて法式あり。大義を明らかにし、後世に垂れ、順守して革えることなかれ。もって後、後世子孫に施す。」  秦始皇帝はこの霊山・泰山で封禅(ほうぜん)の儀式(前219年)をおこなった。天下を統一し人民を安らかにした聖なる天子だけが行える。いわば天帝(太一神)北極星とじかに言葉を交わすための儀式である。以後も、この儀式を行う資格があるかどうか、みずから問うて、辞退した皇帝は数知れない。それだけの神聖な儀式だった。天帝(太一神)とは、北極星のことである。封禅(ほうぜん)の儀式を行ったとされる皇帝は始皇帝が始まりで、その後、漢の武帝、唐の玄宗皇帝など、72人が行っている。だが、古来、伏羲(ふつき)、神農、炎帝、黄帝など、みなこれを行ったと、*”管子”には記されている。 この泰山は、始皇帝が神聖な天帝の儀式を行ったがゆえに、始皇帝のシンボルでもある。このことは、始皇帝の臣民にとって重要な意味をもっている。また、摩多羅神の頭上に北斗七星がある。北斗七星は、柄杓(ひしゃく)のように星が並ぶ。斗とは、「ひしゃく」のことである。北極星は、このなかの先っぽの一つ星であり、すべての天空の星は、この星を中心に回転する。ゆえに、ただ一つの不動の星である。ゆえに、太一とよばれ、最高神である。このことの意味はきわめて大きい。これ以上ない存在を象徴し、その化身は「唯一神」に等しいからである。摩多羅神は神の神、最上の神である。 「太秦(うずまさ)は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち懲ますも」(皇極三年七月)、秦河勝は、京都では神だろうとか神だとか讃えられ、噂が遠くまで響いているというのである。神と噂された太秦、この人物が、秦河勝である。太秦公は、ただの国造(くにのみやつこ)という冠位を与えられた人物より、ずっと大きな存在で、神が降臨した聖人であったという側面が浮かび上がるのである。 *管子 斉の富民・治国・敬神・布教の術を述べた書。管仲の著という。原本は八六編といわれるが、現存七六編、二四巻。 大日経の注釈書。善無畏の講説を一行が筆録。密教を理論的・組織的に解説する。東密では空海が伝えた「大日経疏」二○巻を、台密では円仁の将来した再治本「大日経義釈」一四巻を用いる。(広辞苑より) ○円仁が摩多羅神と命名したのが始まり

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にわか神道三六屋からす一家の神道墓、奥都城(おくつき)ができました。奥都城、奥津城は共に「おくつき」と読み、神道で「お墓」の意味です。神道のお墓の竿石は、通常は細長い角柱型で頂上部は四面を三角形に切った角兜巾(かくときん)型です。 これは、「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ、三種の神器の一つ)を表しております。にわか神道三六屋からす一家の神道墓の竿石は上方にいくに従い細くする軍人墓型とし、四面を三角形に切った角兜巾は完全なピラミッドとしました。○○家は入れません。三六屋からす一家につながる全ての魂のよりどころ、三六屋からす一家の神社です。仏教徒がにわか神道になるのですから、これぐらいインパクトのある竿石が必要です。





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天1=2、2=2,3=2,123=6、人4=1、5=1、6=0,7=0、8=1,45678=3、地9=1,10 =3、910=4。日6月3星4,
天+1=日=天=6、6の現人神。67欠け、
 十3年(星)十2月(月)1日(日)。日が1で、月が十2、星十3で完全な生命の樹,十は0ですので321。月日の121は、正6面体ブロック4つで凸の形になって、御輿、三社造りとなっています。天地人634、日月星634。総数13で平成13年に符合。日=天で天照大神。








 中心に言霊スが入ります。音図の向って右半分を主基田すきたと呼びます。
 音図の向って左半分の上段はハマヤラワとなり、音の左半分の真中に言霊ユがはいります。そこでこの音図の半分を悠紀田ゆきたと呼びます。宮中に於いては毎年新嘗祭にいなめさいに、また、天皇一代に一度の即位の時の大嘗祭に主基・悠紀の田を定め、そこから獲れる新米の稲穂を天皇自ら主基田の月読命と悠紀田の須佐男命に言霊を表わす稲穂イの名なの穂ほ を献じて、ここ三千年の月読と須佐男の対立の構図が実は皇祖皇宗の物質科学探究のための言霊学による経綸なのである事を告げ、「物質科学文明成就の暁には天皇自ら言霊布斗麻邇の原理を以って、三千年の月読・須佐男の対立に終止符を打ち、第三の文明時代建設を親裁するぞ」との予告なのです。

悠紀と主基
大嘗祭が行われる年には、まず、所司(官庁の役人)が、その祭に供える稲を出す斎田を選ぶため、悠紀(ゆき)・主基(すき)の国・郡を卜定(ぼくじょう)する。悠紀・主基の国を斎国(いつきのくに)という。悠紀は東日本、主基は西日本から選ばれ、畿内の国から選ばれたことは一度もない。中世以降は、近江国が悠紀、丹波国と備中国が交互に主基とされ、その国の中で郡を卜定した。








東京スカイツリー 高さ世界一の634メートル(ム6サ3シ4)、



美智子皇后(みちこ、旧名:正田美智子(しょうだ みちこ)1934年(昭和9年)10月20日
地4458、人379、天9十2十、=434=11
天1=0、2=1,3=1,123=2、人4=2,5=1,6=0,7=1,8=1,45678=5、地9=2,10=2,910=4、日4月4星3、
つぐのみや、みちこ
天9十2十、地27238、人379=天4人3地5=12。
天1=0、2=3,3=2,123=5、人4=0,5=0,6=0,7=2,8=1,456783、地9=2,10=2,910=4、日4月5星3、1456欠け。

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