客家方言を持つ彼ら始皇帝の子孫が渡海したのが、AD284年すぎのことならば、AD300年頃から作られた応神、仁徳天皇の大古墳(最大の仁徳天皇陵、応神天皇陵はその次の規模を誇る)は、これらの人々が建設した可能性が高い。始皇帝の大墳墓、大治水工事、万里の長城などの大規模工事は始皇帝が奴隷を15万人も使って建設したもので、すべて始皇帝一代で手掛けたものだった。また、さらにわたしたちが古代の航海がもっとハイテクで盛んだったと見直すと、実に面白い文明論が生まれてくる。馬王堆の漢墓は長江の中域にあり、水運と海運でわずか9日ぐらいで大和につながっている。秦一族は弓月王集団が来る以前から海運を利用して国家的規模ですでに、多数が来朝していたのである。
大辟神社は祭神のメインは秦始皇帝であり、功績のあった子孫・功満王と弓月王を併せ奉ったことを紹介してきた。 さて、大辟の「辟」が「酒」に転じたのは、京都太秦の神社がお酒の神様といった意味合いをだすためだったようだ。新選姓氏録によると、秦酒公(はたのさけのきみ)という5世紀頃の人が見つかる。酒公はやはり秦始皇帝の末裔とされ、雄略天皇(456〜479在位)に重用され、初の大蔵の長官に抜擢された。酒造の技術をもつゆえに、「酒公」といわれた。秦氏(はたうじ)一族と酒造りのテクノロジーにも固く結びついている。松尾(まつのお)神社はやはり秦一族の勧請であるが、この神社は酒造の神様として有名である。
また、大辟神社のもつ謎の核心は、ダビデ大王の名を隠し奉っているところにある。秦始皇帝の子孫が日本で大勢力をもっていたことは歴史ばかりか、日本人のルーツそのものに影響する。秦氏系は関東では秦野、八王子、調布、飯能、桐生、秩父、足利などに大集団がいた。いずれも養蚕に縁が深く、それぞれの土地の古社は秦族の養蚕の収益で造営されている。さらに、秦氏は九州、四国、中国、信州などにも広く分布した最大の氏族だった。宇佐八幡宮(うさはちまん)、松尾大社(まつのお)、金刀比羅宮(ことひらぐう)、伏見稲荷大社(ふしみいなり)なども秦氏族の勧請とされる。圧倒的な数の神社がすべて秦一族の系統なのである。八幡宮の総本宮である宇佐八幡宮では、おどろくべきことに応神天皇を祀る。宇佐宮でなぜ応神天皇を祀るのだろうか? また、応神天皇陵の前にある誉田八幡宮も応神帝を祭り、社の縁起では我が国最古の八幡宮としるされている。 その謎は、もう明快だ。応神天皇は巨丹(ホーテュエン)からの秦一族を半島から救出した英雄だった。そこで、秦氏の創建した神社で応神帝が祀られているわけだろう。 しかし、さらに考えられることは応神天皇自身が秦一族であることだ。宇佐宮や、琴平宮は海の安全の神である。ここで秦族の神社の中には、金刀比羅宮のような海神もあることに気付く。内陸から朝鮮経由で来た秦族は史実では弓月君の一回だけで、海を往来する海人のイメージはない。しかし、長江から海路で来た海人も秦族であったとすれば推理は可能である。そうだとすると、秦族の日本で圧倒的多数は長江からの渡来であるだろう。ここでは、さらにグローバルな秦族の首長こそ、宇佐八幡宮で祀られる応神天皇だった可能性がでてくる。宇佐八幡宮を頂点とする全国四万六百余の八幡神社は例外なく応神天皇と神功皇后を併せ祭っている。それは、ともに共立王朝の開祖であるからだ。