○摩多羅神はどこから来たのか?
秦族がなにゆえに秦始皇帝を大辟神社に祀ったかといえば、彼らが一族の風習=先祖を祀り崇拝する根底の意識=に従ったからに他ならない。それが、始皇帝であり、ダビデ王だった。その大辟神社が摩多羅神の祭り「牛祭」を行うようになったのはなぜだろうか。 秦氏一族がなぜ摩多羅神を招来する理由があったのか・・・・それが最大の謎でもある。 その謎は秦始皇帝が封禅(ほうぜん)の儀式を行った中国の霊山・泰山にある。新羅、山東省、出雲・大和のトライアングルにおいて秦族は互いに交流があったであろう。新羅の土着神もまた秦一族に祀られているのである。円仁「慈覚大師」が秦族の援助をうけて、摩多羅神と、赤山明神を護法の神として招来した。そこで、天台宗系はこの系譜に深くつながっている。円仁死後、円仁自身の遺命によって、赤山禅院(京都市左京区修学院)が建立され、天台延暦寺の別院として京都の表鬼門を護った。これとほぼ同じ頃に、大辟神社でも摩多羅神の祭儀が行われるようになった。
○泰山府君は円仁が招来した!!! 赤山禅院で祀られている赤山明神は、泰山府君ともいう。源平盛衰記では、「赤山明神とは震旦(中国)の山の名なり。かの山に住む神なれば、赤山明神と申すや。本地は地蔵菩薩なり。泰山府君とぞ申す。」と、あり赤山は泰山のいわば分院だったのだろう。 泰山は中国の山東省の霊山で、この山の神が泰山府君である。円仁の著「入唐求法巡礼記」では、838年入唐後、天台山で修業しようとしたところ許されず、揚州の開元寺で学ぶ。一年後に帰国する予定が、乗船した遣唐船は山東半島の登州に漂着、それからしばらく赤山法花院で学び、五台山、長安に遊学、再び新羅の商船で日本に帰った。その船は847年博多の鴻臚館(こうろかん)の浜辺に着いた。山東省の海辺には800年頃、新羅の居留地(新羅坊)があり、秦一族が定住していた。そこは新羅船(横揺れに強い外航行船)が行き交っていた。赤山法花院は新羅居留民(秦氏)が寄進した寺院だった。円仁が唐の帰りに船の上で念仏の守護神として摩多羅神が現れたとする伝説の船とは新羅船だった。ここで、浮かび上がるのが日本〜新羅〜山東省(登州)という同祖同族ネットワークである。