木島(このしま)の謎を考える
木国とは紀州のことで、木島もおそらく紀州をさす。しかし、木島がはたして地名なのかどうか判明しない。ところで蚕(かいこ)とはヘブル語でシェバ(Sheba)という。有名な「シバの女王」は、「蚕の女王」の意味。イスラエルには「SHEBA」という町がある。「このしま」を、「胡能斯波」と逆古語化できないだろうか。そこで、「コノシバ」がしだいに、変化して、木島(このしま)のスマートな漢字が当たられた可能性がある。 1)柳田国男は、蚕(カヒコ)は単に「コ」とも言われていたのだという。「蚕のコだけは人以上の敬称がついている。」と書いている。「こ」に「蚕」をあてることができるだろう。「蚕能島」(このしま)となり、かいこのしまと読む。「かいこのやしろ」の冠にふさわしくなる。 2)言語学によれば、「シェバ」は「せば」に訛るはずであるが、しかし「しら」とか「しろ」に訛っている。大和や伊予では蚕のさなぎを「しろこ」といっていたという。 蚕神(さんしん)として、日本で馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)が信仰されていた。馬と養蚕が結び付いた理由は、中国の伝承に残されている。 「昔、父が旅に出たので、一人娘が留守をしていた。娘は寂しさのあまり、『もしお父さんを連れ戻してくれたなら、お前のお嫁さんになってあげる』と、馬に話しかけた。それを聞いた馬は、駆け続けに駆けて父のところへ行った。父は馬を見て驚き、家に変事があったと思ってその馬に乗り、急いで家に帰った。こうして娘の希望はかなえられたが、娘は馬に嫁がなかった。馬は娘を見るたびにとても興奮した。それを見て父は不審に思い、娘に問いつめた。そして、事情を知った父は、やはり娘を馬の嫁にするのに忍びず、その馬を弓矢で射殺し、皮をはいで庭に干した。娘はその皮を足にからませながら、『畜生の分際でわたしをお嫁に欲しがるなんて』と言ってあざ笑った。そのとたん、馬の皮はガバッと起き上がって娘を包みこみ、そのまま舞い上がって桑の木に止まった。皮に包みこまれた娘は、間もなく虫になってしまった。その虫は、桑の葉を食べ、銀色の糸を吐き出すようになった。そこで人々は、彼女を馬頭娘(ばとうじょう)と呼び、養蚕の神として祀った。」(挿神記・太古蚕馬記・神女記・山海経)(以上、マンダラ博物館・西上ハルオより抜粋) この養蚕神の由来から、仏教が伝えられると、習合して馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)が誕生した。 ”東北のオシラ祀り”の次のようなあらすじの祭文がイタコたちのによって読まれる。 「長者夫婦は、観音様に祈願して、美しい娘を授かった。ところが、長者の飼っていた馬が娘に情を寄せたので、怒って長者は馬を殺して皮を剥いでしまった。すると、はがれた馬の皮は娘に抱きついて飛びさってしまった。代りにそこへ馬頭観音が現れた。そして桑の木には白い虫が現れ、蚕になった。」(仏教と民族・五木重・角川選書)養蚕と馬がこうして結び付いて、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)が養蚕・機織りの菩薩として祀られていた。この信仰は、養蚕技術とともに中国から伝えられ、日本各地に広まり、おしら神・衣襲明神(きぬかさ)とか言われた信仰につながったのである。