由緒書(ゆいしょがき)
宗教法人 大酒神社 祭神 秦始皇帝 弓月王 秦酒公 相殿 兄媛命 弟媛命(呉織女、漢織女) 神階 正一位、治暦四年四月(1068年) 当社は、延喜式神名帳葛野郡二十座の中に大酒神社(元名)大辟神社とあり、大酒明神ともいう。 「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を*仲哀天皇八年(三五六年)皇帝一四世の孫、功満王が漢土の兵乱を避け、日本朝の純朴なる国風を尊信し始めて来朝しこの地に勧請す。これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生まれた。 后の代にいたり、功満王の子弓月王、応神天皇一四年(三七二年)百済より一二七県の民衆を一万八千六百余人統率して帰化し、金銀玉帛等の宝物を献上す。また、弓月王の孫酒公は、秦氏諸族をひきいて蚕を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類を夥しく織りだし朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如し、天皇御悦のあまり、埋益という意味で酒公に禹豆麻佐の姓を賜う。数多の絹織を織りだしたる呉服漢織の神霊を祀りし社が大酒神社の側にありしが明歴年中破壊に及びしをもって、当社に合祭す。 機織のみでなく、大陸および半島の先進文明を我が国に輸入するに力め、農耕、造酒、土木、管絃、工匠等産業発達に大いに功績ありしゆえに、その二神霊をあわせ祀り三柱となれり。 今大酒の字を用いるは酒公を祀るによってこの字に改む。 広隆寺建立后、寺内、桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、明治初年政令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。現在広隆寺で十月十日に行われる、京都三大奇祭の一つである牛祭は、以前は広隆寺の伽藍神であった時の当社の祭礼である。 尚、603年広隆寺者、秦河勝は酒公の六代目の孫、また、大宝元年(七〇一年)子孫秦忌寸都理が松尾大社を創立、和同四年(七一三年)秦伊呂具が伏見稲荷大社を建立した。古代の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発達を貢献した、秦氏族の祖神である。 以上、由緒書(ゆいしょがき)全文 以下、由緒書記載ルビを、そのまま転載 秦始皇帝(しんのしこうてい)・弓月王(ゆんすのきみ)・秦酒公(はたのさけこう)・治暦(じれき)・延喜(えんき)・葛野(かどの)・大辟(おおさけ)仲哀(ちゅうあい)・功満(こうまん)・純朴(じゅんぼく)・勧請(かんじょう)・后(のち)・応神(おおじん)・県(あがた)・百済(くだら)・民衆(ともがら)・統率(とうそつ)・帰化(きか)・玉帛(ぎょくはく)・蚕(かいこ)・類(たぐい)・夥しく(おびただ)埋益・(うずまさる)・禹豆麻佐(うずまさ)・社(やしろ)・側(かたわら)・機織(はたおり)・力め(つと)・管絃(かんげん)・工匠(こうしょう)・用いる(もち)・伽藍(がらん)・河勝(かわかつ)・忌寸都理(いみきとり)・伊呂具(いろぐ) *仲哀天皇八年(三五六年) 仲哀天皇八年が三五六年と表記されているが古事記(ふることぶみ)の干支崩年に基づいている。実際の年数はこれから120を引くと近い西暦になるという考え方があり、古事記の西暦変換は日本書記とは合わない。(仲哀八年はAD232年であろうか)また、天皇の在位年数も水増しされているか、倍年暦をもちいているのではないかといわれている。古事記によれば応神天皇の崩御時の年齢を130歳、神宮皇后を100歳とする。それぞれ75歳、50歳とするのが実年とされる。天皇の歴代が正しく史実と一致してくるのは700年過ぎからであろうと言われている。