和田(ホーテュエン)ホータン
巨丹、于(かんろう)は旧名。丹の文字が見えることに注目。日本の地名にも丹がつく所が多い。漢代では、Kustana(梵語)という古王国名が残されている。チベット(土番)は、この地をリユル(Liーyul)と称していた。西域の大夏、安息(ペルシャ)の商人が中国と通商を行う中継地として栄えた。西域シルクロードの南道に沿っていて、カラコルム山脈、K2に近い位置にある。かつて大乗仏教が盛んで、中国大乗経の主なものはこの地から伝播された。しかし、九〜十一世紀に回教徒のトルコ系民族に征服され、仏教は滅亡した。今は、80%がウィグル族である。
ホータンは崑崙(こんろん)山脈の南側麓にある。極端な乾燥地帯であるが崑崙山の氷河・万年雪から流れでる大小の雪解け水がこのホータンに集まる。6月になると一挙に毎秒200トンという水が氷河から溶け出す。あまりの勢いに洪水をもたらすこともある。やがて大河となり、そして、タクラマカン砂漠を縦断する。これが、ホータン川と呼ばれ、80度の灼熱の砂漠を一分に3メートル突き進み、2ヶ月かかって五百キロ余り先のタリム川に合流する。10月になると、雪解けはなくなり、ホータン川は消えてしまう。4ヶ月の間だけ流れる季節川である。タクラマカン砂漠のオアシスであるといっても、一年中水が豊富であるわけでもない。雪解け水を頼りに、そこに農耕生活が営まれている。ホータンは、治水、灌漑の技術は必然的に発達するのはこのためであろう。
ホータンについて詳しい伝承は、東晋の求法僧「法顕」(ほっけん)が資料となる。AD399年同学の僧四人と長安を発し、始めにインドに入り、三年滞在して梵語・梵文を学んだ。その後、前後一四年の旅をして一人無事に帰り、「大般涅槃経」などを漢訳したとされる。彼のインド旅行記「法顕伝」は当時のインド・中央アジアを知る重要資料となっている。その当時のホータンでは仏教が隆盛であった。このことは、この資料から分かる。行装では、王は額ずいて仏跡石に口付けし、王女は会場の壇上から散華(花を散らす)していたことなどが記されている。ホータンでのパレードでは火焔男、刀飲み、綱渡りなどの大道芸が大はやりだったらしい。この旅行記が399年に書かれたということは、すでに弓月の民が日本に来て160年すぎた頃、日本ではいわゆる大古墳時代が終わりかけてきた頃である。
ホータンは崑崙(こんろん)山脈の南側麓にある。極端な乾燥地帯であるが崑崙山の氷河・万年雪から流れでる大小の雪解け水がこのホータンに集まる。6月になると一挙に毎秒200トンという水が氷河から溶け出す。あまりの勢いに洪水をもたらすこともある。やがて大河となり、そして、タクラマカン砂漠を縦断する。これが、ホータン川と呼ばれ、80度の灼熱の砂漠を一分に3メートル突き進み、2ヶ月かかって五百キロ余り先のタリム川に合流する。10月になると、雪解けはなくなり、ホータン川は消えてしまう。4ヶ月の間だけ流れる季節川である。タクラマカン砂漠のオアシスであるといっても、一年中水が豊富であるわけでもない。雪解け水を頼りに、そこに農耕生活が営まれている。ホータンは、治水、灌漑の技術は必然的に発達するのはこのためであろう。
ホータンについて詳しい伝承は、東晋の求法僧「法顕」(ほっけん)が資料となる。AD399年同学の僧四人と長安を発し、始めにインドに入り、三年滞在して梵語・梵文を学んだ。その後、前後一四年の旅をして一人無事に帰り、「大般涅槃経」などを漢訳したとされる。彼のインド旅行記「法顕伝」は当時のインド・中央アジアを知る重要資料となっている。その当時のホータンでは仏教が隆盛であった。このことは、この資料から分かる。行装では、王は額ずいて仏跡石に口付けし、王女は会場の壇上から散華(花を散らす)していたことなどが記されている。ホータンでのパレードでは火焔男、刀飲み、綱渡りなどの大道芸が大はやりだったらしい。この旅行記が399年に書かれたということは、すでに弓月の民が日本に来て160年すぎた頃、日本ではいわゆる大古墳時代が終わりかけてきた頃である。