368からすの数霊 - 賀陽宮(かやのみや)
賀陽宮(かやのみや)は、明治中期に久邇宮朝彦親王の第2王子邦憲(くにのり)王が、父宮がかつて称していた宮号を受け継いで、新しく創設した宮家である。

邦憲王は、慶応3年(1867年)に誕生。幼名を巖麿王という。本来、父宮朝彦親王の跡を継ぐ予定だったが、病身の故をもって久邇宮家の家督を弟邦彦王に譲った。明治25年(1892年)に醍醐忠順侯爵の長女好子と結婚。京都に一家を構えるにあたり新たな宮家設立を明治天皇に請願し勅許を得、賀陽宮を称した。賀陽宮の宮号は、朝彦親王の宮邸の榧(かや)の老木に由来するという。邦憲王は、明治28年(1895年)に伊勢神宮祭主に就任。明治42年(1909年)、42歳で薨去。

2代恒憲(つねのり)王は、邦憲王の第1王子。明治33年(1900年)誕生。大正10年、九条道実公爵の娘敏子と結婚。昭和6年に夫妻でアメリカを訪問。国際親善に努める。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。軍人としては皇道派に近かったと言われている。終戦時は陸軍中将。東久邇宮稔彦王と共に敗戦の責任を取って、皇籍離脱することを主張。昭和22年(1947年)の皇籍離脱の際には、自ら区役所に赴いて手続きを済ませた。野球の愛好家で、野球の事業家に着手したが、失敗。昭和45年(1970年)に長野県に特別養護老人ホーム「敬老園」を設立した。昭和53年(1978年)、78歳で逝去した。

賀陽宮家の宮邸があった場所は、現在、千鳥ケ淵戦没者墓苑(東京都千代田区三番町)となっている。
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