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事件
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田中義一首相を叱責
満州某重大事件の責任者処分に関して、田中義一内閣総理大臣は責任者を厳正に処罰すると天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかった時、昭和天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中義一を激しく叱責し、彼を罷免した。
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天皇機関説事件
1935年、天皇機関説が排撃された天皇機関説事件について、昭和天皇は侍従武官長・本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説で良い」と言った。 昭和天皇が帝王学を受けた頃には憲法学の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていたにもかかわらず、直接・間接にはなんら行動を起こすことはなかった。機関説に関しての述懐を、昭和天皇のリベラルな性格の証左としながら、同時に、美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする記述は、しばしば見られるが、現実にはそれほど単純でない。
機関説は、本来は、国家有機体説にたったものであるが、戦前期の日本においては、天皇を国家の一機関として観念するという点において、社会科学的思考と結びついていた。しかし、昭和天皇がそこまでの理解を持っていたかは疑問である。昭和天皇の理解していた機関説は、「一機関」としての性質を強調する一木−美濃部ラインのものではなく、有機体の「頭部」であることを強調する、清水澄の学説に近かったとする説もある。
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二・二六事件
1936年に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、昭和天皇は「我が頼みとする大臣達を殺すとは我が首を真綿で締めるが如き行為だ、こんな奴等を赦してやる必要などない」と激怒、「お前達がやらぬなら私が近衛師団を率いて直接鎮圧に当たる」と発言したとされる。
これによって決起軍は反乱軍と認定され、事件は速やかに解決に向かったのである。しかし、毅然とした態度に当時独走傾向が強かった一部軍人の間に、さらなる独走傾向を強めたとされる。
この時の発言を、太平洋戦争終結の聖断と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」とか「あの時はまだ若かったから」と後に語ったと言われている。なお、1975年にエリザベス女王が来日した際、首謀者真崎甚三郎の息子を昭和天皇は自らの通訳に選んでいる。
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大東亜戦争開戦
1941年9月6日の御前会議で、対米戦は避けられないものとして決定された。御前会議では発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、明治天皇御製の
「四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世に など波風の 立ちさわぐらん」
(四方の海はみな兄弟と思うこの世になぜ波風が立ち、騒ぎが起こるのであろう。)
という短歌を詠み上げた。これは立憲君主として、政策は民意によって形成されるべきであるという考えに立ちつつ、それでも戦争を望まないという最終的な意思表明をしたものだと思われる。これにわかる通り、天皇は専制君主とならぬよう自覚し、自らを律して行動していた。
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戦争責任
昭和天皇とマッカーサーの会見(1945年9月27日)
大東亜戦争時の最高権力者であったが、連合国から戦争責任を問われなかったことは後に多くの論争を引き起こした。
敗戦前の大日本帝国憲法(明治憲法)のもとでは、第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を根拠として、軍の最高指揮権である統帥権は天皇大権とされ、また第12条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」を根拠に軍の編成権も天皇大権のひとつとされた。政府および議会から独立した、編成権を含むこの統帥権の独立という考え方は、1930年のロンドン海軍軍縮条約の批准の際に、いわゆる統帥権干犯問題を起こす原因となった。
統帥権が、天皇の大権の一つ(明治憲法第11条)であったことを理由に、1931年の満州事変から日中戦争、さらに大東亜戦争へと続く、いわゆる十五年戦争の戦争責任をめぐって、最高指揮権を持っていた天皇に戦争責任があったとする主張と、明治憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定された天皇の無答責を根拠に(あるいは軍事等についての情報が天皇に届いていなかったことを根拠に)、天皇に戦争責任を問え得ないとする主張とのあいだで論争がある〔大日本帝国、大日本帝国憲法を参照〕 。 また、美濃部達吉らが唱えた天皇機関説によって天皇は「君臨すれども統治せず」という立憲主義的君主であったという説が当時の憲法学界の支配的意見であり、太平洋戦争(大東亜戦争)に関して、天皇が開戦をした等という考え方はそもそも取りえない、又は、戦争責任という概念自体がそもそも空論であり、戦後において勝者が敗者を私刑するための空想概念であるとする説も主張されている。
敗戦後の極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)において、ソビエト連邦、オーストラリアなどは天皇を戦争犯罪人として裁くべきだと主張したが、連合国最高司令官であったマッカーサー元帥らの政治判断(昭和天皇を被告として裁く事となると、国内世論が占領軍に反発し、円滑な占領政策が行えなくなるとの懸念)と、天皇制国体の護持を信奉する支配階級の思惑(天皇の戦争責任を一部の軍人と政治家に転嫁して、責任追求を回避させること----このため、松平康昌・田中隆吉らはGHQへ情報を提供し積極的な協力をした)によって、戦犯として裁かれることはなかった。他にも理由として、昭和天皇が初めてマッカーサー元帥を訪問した時に、マッカーサー元帥は当初命乞いするのではないかと考えていたのに対し、昭和天皇は「私はどうなっても構わない。責任は自分がとるので、国民を助けてほしい。」と語り、マッカーサー元帥が大いに感動したからとも言われている(マッカーサーメモより)。但し、この会談内容については全ての関係者が口を噤み、否定も肯定もしない為、真偽の程は明らかでない。
1946年1月1日に発表された年頭の詔書、いわゆる人間宣言で、天皇の神格を否定した。その一方で、「降り積もる深雪に耐えて色変えぬ松ぞ雄々しき人もかくあれ」なる短歌を詠んでおり、捲土重来を期したと見られている(松は日本、降る雪をGHQの圧力に喩えたのだと読み解く声あり)。
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外遊
レーガン大統領夫妻(左がナンシー、中央が大統領)と昭和天皇(右)。1983年11月9日、東京にて
皇太子時代の1921年3月3日から同年9月3日までの間、イギリスやフランス、ベルギー、イタリア、バチカンなどを公式訪問した。これは史上初の皇太子の外遊であり、国内には反対意見も根強かったが、山県有朋や西園寺公望などの元老らの尽力により実現した。イギリスでは日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、ジョージ5世国王やロイド・ジョージ首相らと会見した。イタリアではヴィットリオ・エマヌエーレ国王らと会見した他、各国で公式晩餐会に出席したり、第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れた。後に昭和天皇はこの外遊が非常に印象的であったと述べている。
1971年には再度イギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問したが、大東亜戦争中にアジアに点在する植民地を攻撃されたことに怒る退役軍人が多いイギリスとオランダでは、彼らの抗議活動に遭遇することになった。
また、1975年にはアメリカ合衆国を公式訪問し、ワシントンD.C.やロサンゼルスを訪問した。ロサンゼルス滞在時にディズニーランドを訪問し、ミッキーマウスの腕時計を購入したことが話題になった。
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死の前後
1988年9月19日に吐血してから翌年1月7日に崩御するまでの期間は、テレビなどでバラエティが自粛になった。