日本の戦国時代に関すること全般。戦国武将や合戦、城、戦国時代に関する資料・書籍等について書いています。

天文21年(1552)?〜天正7年(1579)3月24日

北条氏康の七男として生まれる。幼名は竹王丸。通称三郎。氏秀と名乗る。
幼少期を早雲寺で過ごし、甲斐の武田氏・駿府の今川氏・相模の北条氏による甲駿相三国同盟の際に人質として武田家に送られ、武田信玄の養子となり武田三郎氏秀と名乗る。(最近の説では武田家の文献にも記載がないことから武田家へ行っていないとの説が有力である)

永禄10年(1567)信玄が今川領に侵攻し、協定を破る。
北条氏は今川氏に支援した為、三国同盟は破棄となり、小田原城へ戻る。
小田原へ戻り、大叔父に当たる北条幻庵の養子となり幻庵の娘を娶る。

永禄12年(1569)上杉謙信と北条氏康が和睦をし、越相同盟を結ぶ。
その際、氏政の二男・国増丸が人質として決まっていたのだが、翌年氏秀が養子となった。謙信は氏秀を大変気に入ったようで、初名である「景虎」の名と自分の姪(景勝の姉(妹の説も))を与えて上杉一門として二の丸に住まわせた。

天正6年(1578)謙信が死去すると、もう1人の養子の上杉景勝と家督を巡り争う御館の乱が起こる。本丸を景勝が占拠した為上杉憲政の居城だった御館に逃げ立て篭もる。北条家の後ろ盾もあり、最初は景虎が優勢かと思われたが、景勝が武田勝頼の妹お菊を正室として迎え、武田と手を結んだのと、謙信の残した遺産を手にしていた為次第に景勝が有利となり、冬の雪で北条からの援軍も望めず御館城は落城する。憲政は景虎の嫡子暗殺され、景虎は兄の氏政を頼り小田原へと逃亡をするが、途中の鮫ヶ尾城の城主堀江宗親の謀反に合い、自害した。享年28歳。

法名は徳源院要山浄公。墓所は新潟県新井市の勝福寺にある。


最近では、氏秀は上杉へ養子に行った時に江戸に居たとされる為、養子に行ったのは氏秀ではなく綱成の二男という説が出てきている。

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