日本の戦国時代に関すること全般。戦国武将や合戦、城、戦国時代に関する資料・書籍等について書いています。

(おだのぶだだ)
【生没年】弘治3年(1557)尾張にて誕生。天正10年(1582)6月2日、京にて自害。享年26歳。

織田信長の嫡男。母は生駒家長の妹・吉乃。同腹の兄弟に弟・信雄、妹・五徳(徳側家康の長男・松平信康の正室)がいる。幼名・奇妙丸。
子に本能寺の変後、織田家の家督を相続する三法師秀信がいる。

天正元年(1573)、弟の信雄や信孝と共に元服。同年、武田家の家臣・秋山信友の調略により奪われた東美濃の岩村城攻略を命じられる。急峻な地にある岩村城攻略に苦戦を強いられ長期包囲の情勢になる。
この間、勢いに乗る武田勝頼は近隣の明智城・高天神城を次々攻略。しかし天正3年(1575)の長篠・設楽原の合戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫すると急速にその勢力を失う。

これを機に信忠は岩村城を包囲を強化。兵糧攻めに窮した城兵は信忠軍に夜襲をかけるも大敗。城兵は降伏を申し出、開城。しかし、城兵は殺され城主を務めていた秋山信友とその妻となっていた信長の叔母は長良川河畔にて処刑される。

岩村城攻略の功績により同年、信長より家督を譲られ尾張・美濃あわせて110万石を与えられ岐阜城主となる。

天正5(1577)年には反旗を翻した松永久秀討伐軍の総大将を務め、これを打ち破る。翌年には同じく謀反を起こした荒木村重攻めの総大将も務め一年にわたる包囲作戦を展開。見事攻略する。

天正9年(1581)の馬揃えでは一門衆最大の八十騎を従え参加する。

天正10年(1582)3月の武田討伐では先陣を務め、織田軍の主力を率い進軍。信忠軍の猛攻により武田勝頼はなすすべなく自害に追い込まれる。
信忠は信長の到着を待たずして短期間のうちに名門武田家を滅ぼすという大活躍をする。
しかし同年6月に起きた本能寺の変では二条御所にて明智軍を迎え撃ち奮戦するも自刃。信長と運命を共にする。
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