日本の戦国時代に関すること全般。戦国武将や合戦、城、戦国時代に関する資料・書籍等について書いています。

(ほんだただかつ)
天文10年(1548)〜慶長15年(1610)10月18日。
幼名鍋之助、通称平八郎。徳川四天王の一人。
《身長:162〜165cm》


譜代の家臣本多氏の一族の本多忠高の子として三河国にて生まれ、
家康の家臣として小さい頃より仕え、元服をし旗本として活躍。

勇猛な武将として知られ、
永禄3年(1560)13歳だった時の大高城の兵糧入れから慶長5年(1600)の関ヶ原の戦まで57回の戦に出るが、
一度も傷を負わなかったという逸話が残っている。
元亀3年(1572)遠江一言坂(ひとことざか)の戦で奮闘。
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と謳われるほどだった。
また、彼の愛用していた槍の「蜻蛉切り」は6メートルほどの長さがあった。
蜻蛉が槍先に止まろうとした所、あまりの鋭さに切れてという逸話から名がついたという。

同年の三方ヶ原の戦、天正3年(1575)の長篠の戦にも参戦する。

天正20年(1582)には、家康に随従して上方へと赴くき、本能寺の変で家康帰国の伊賀超えにも従った。

天正16年(1586)秀吉より従五位下中務大輔を賜る。
このとき豊臣姓も与えられたが固辞をした。
天正18年(1588)は小田原攻めにも参戦。
家康の関東入国の際に、上総大多喜十万石に転封となる。

慶長6年(1601)伊勢桑名城に十五万石に転封。
関ヶ原の戦で天下泰平を確実にした為、文吏派の本多正信などが重宝され、忠勝のような武功派は遠ざけられて、江戸よりとても遠くの伊勢国への転封となり、活躍の場も無く静かな余生を送ることとなる。
慶長13年(1609)には隠居をし、嫡子忠政に家督を譲る。
翌年慶長14年(1610)10月18日桑名城にて病死。 
享年63歳。


法名は西岸寺殿前中書長誉良信大居士。
墓所は三重県桑名市の浄土寺、千葉県夷隅郡大多喜町の良玄寺にある。
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