酔いどれ天使 - 『今英嘆』 真昼の月編  第二章 淡月
[7]
 それから数日後。
 仕事を終え、いつものように水剌間で練習に励んでいた。他の子と一緒の時もあるが、熱心に遅くまで練習しているのは私とチャングムだけ。今日も、二人きりだ。
 包丁で食材を切りながら、考え事を……先日のチェ尚宮様との会話を思い出していた。
  ―――………むつびごと………愛を育む………。
      でも私には、あの方しかいないの。でも女官は王様の女だし……。
      愛しい………安らぎ………。女官って、いったい……うーん……。

  バタバタバタ
  ―――やめてよ! ほこりが上がるし、気が散るわ!
 せわしなく私の前を走って行く。
  ―――だいたい、あなたって人は。

 ハン尚宮様に水を調べるようにと言われて、あなたはお米のとぎ汁や鉱泉水とか、いろいろな水の味をみたり、お料理に使ったりしているわよね。
 前に水がいかに大切かを力説してくれて、尚宮様の『水を持ってきなさい』の話は面白かったわ。そこまではよかったんだけど。

 あなたは、怪しげな水を差し出して、
「ねえねえ、味をみてみて」
「え、ええ……。でも、このお水、大丈夫?」
 恐る恐る飲んだら次の日、お腹をこわして一日中辛かった。
 早目に部屋に戻って寝込んでいると、あなたはお見舞いに来てくれたけど。
「大丈夫? ごめんね。私が昨日……」
「ううん、あなたは平気なのね」
「私は身体が頑丈だから……というより鈍感? あはは」
 あははじゃないわよ!

 それから、あなたは竈(かまど)で使う薪を調べていたわよね。いつだったか忘れたけど、なんか、きな臭いなと思って見に行ったら、かたわらにあった焚付けに火が燃え移っている。
「ちょ、ちょっと! 何やってるの? 大変!!」
「クミョン! ちょっと手伝って!」
 二人でなんとか防いで、尚宮様にも火事は見つからなかったけれど。
 ……見つからなかったと思っていたけどススの跡までは隠せなくて、次の朝の服装検査の時にお叱りを受けていた。
 自分が怒られているみたいに、私までびくびくしてしまって。

 はっきり言って迷惑な人。そう思ったけど。
  ―――あなたの姿を、いつも目で追いかけているような気がする。

 でも、あなたは同じ水剌間の見習い生で、言ってみれば競争相手かしら。
 うーん……競争相手……ねえ。今日もまた台所を台無しにした罰として、宮に入りたての十も年下の後輩たちと皿洗いをさせられていた。薄桃色の集団に、一人だけ混じる緑のお仕着せが遠くからでも目立つのに。
 あの子は全然頓着していない。
 まあ、見ていたら面白くて飽きないんだけど。

 そんなことをゴチャゴチャ考えていたら、
「つぅっ!」
包丁が滑って軽く指を切ってしまった。みるみる血が盛り上がる。
  ―――私としたことが。えーと、布きれ布きれ……ない! お料理に入ってしまう!
     服に付いてしまう! どうしよう?

「クミョン、大丈夫?」
 いつの間にか側に来たあなたは、私の傷ついた指先を手拭いで押さえた。
  ―――え?
 予想外、突然のことに呆然とした。
 あなたの左手に私の手首を預け、人差し指を布越しぐっと握られている。
 手を取られたまま、私の目は自分の手元から、時々指を放しては傷の加減を確かめるあなたの真剣な顔付きへ何度も往復する。

 私に、布をそのまま押さえ続けるように言うと、チャングムは上の棚から料理用の特別に仕立てられた――透明に濾してある――焼酎を取り出した。
「これって」
 それはとても貴重なもので、内人はもとより見習いなど、瓶に触ることも許されない。しかしチャングムは躊躇無く栓を開けた。そして口に含むと、私の指をめがけて、
  ぶぶーっっ
と、霧のように拭いた。
「ひゃっ」
 びっくりした。引っ込めようとしても、強く握られて動かせない。
 傷にしみて熱いような、それ以外の場所は冷たいような、そんな変な感覚。
「ちょっとだけの辛抱だから。こうしておくと傷が膿まないって、トックおじさんに教えてもらったのよ」
 しかたなく、しばらく風に晒す。ほとんど乾いてからチャングムは、綺麗な布を裂いて私の手にくるっと巻いてくれた。
「はい! そんなに深く切っていないみたい。すぐに直るわ」
「……あ、ありがとう……」
 我に返った時には、もうあなたはそこにはいなかった。
  ―――なんなの? この胸のドキドキは……。

 その日以来、今までとは違う意識をあなたに持つようになった。

 別の日。
 私を見たあなたは、
「あ、クミョン。チョゴリの結びひもが緩んでいるわよ」
「あ、本当」
  ―――また私ったら。
自分で直そうとするよりも早く、手がサッと延びてきて、ギュッギュッとひもを締める。
  ―――え? え? なんであなたが直してくれるの?
「ありがとう……」
 我に返った時には、やっぱりあなたはそこにはいなかった。
  ―――やっぱりドキドキする。いったいなんで?

 また別の日。
 水剌間でいつものように料理の練習をしていた。あなたの他には誰もいない。
  ―――ああ……なんか、気が乗らない……。今日はあなたも普通だし、つまらない。
     ……………こんなことを思う私って、どうかしている……。

 そんなことを考えていたら、あなたが寄って来た。手にはお菓子が盛られた器を持っている。
「見て見てクミョン。ヨンセンから栗のお菓子を貰ったの。食べない?」
  ―――ヨンセンかぁ。まあいいっか。
「ええ、ありがとう」
 手を出すと、
  ―――あれ?
 お菓子をつまんだあなたの手は……私の手のひらの上を通り過ぎ、すぐ目の前にある。
「クミョン、あーんして」
  ―――は? な、なに?
「ほらぁ〜。早くぅ〜」
  ―――あなたって人は……。
 戸惑いながら口を開け、
  モグモグ…
  ―――味が分からない。それより、この弾むような気持ちは何なの?

 あなたは二つ目をつまんで私の口元へ。
「はい、もう一ついくわよ」
 大きく口を開けたけど。
  ぱく
 食べているのは……あなたじゃないの!
「ちょっと、チャングム!」
「あははは」
 人をからかって楽しそうに笑っている。
 よーし、じゃあ今度は私が。栗菓子を一つ、つまんで。
  ―――じゃあチャングム、次はあなたね。あーんして。
 心の中で言ってみただけど……恥ずかしくなって……そのまま自分の口に運んだ。
  ―――でも……あなたといると、なんだか楽しくて。もっとこうしていたい。

 今までは、ちょっと変わった子としか思っていなかった。遠過ぎればつまらないけど、近過ぎればうっとうしい、そんな存在だった。話しをしても触れられても、なんでもなかった。それが徐々に変わり始めている。
  ―――私、この子に惹かれているの? これって……まさか……尚宮様の言われた
     ようなことなのかしら? 違うわ。違う。私はナウリに心を差し上げると
     決めているのよ。
      ……心? そうよ、心だけよ。それ以上には……。

      じゃあ、この子とは?
      『だから女官同士でね』
      ……そのうちこの子と、あの本のような?
      そして…………そしてそしてひょっとして、ナウリを忘れてしまう……?

      いいえ違うわ! こんなことを考えてしまう、ふしだらな私をお許し下さい、
     ナウリ!!

 葛藤に悶々(もんもん)とし、あの方が遠くに行ってしまう夢を何回も見た。
 やっと怪しげな絵のことが頭から離れかけたのに、また違うやましさのような、後ろめたい気持ちが胸を行き来する。

 けれど……あなたといると嬉しくなるなんて。何気ない出来事がこんなに楽しいなんて。
 今まで、友達らしい友達なんていなかった。同じ年頃の子とこんな風に過ごしたことは無かった。たわいない喜びを分かち合ったことが無かった。

 『あの子はチェ一門だから。珍しい香辛料も手に入るから。どうせ私たちとは違う』
 向けられるのは羨望や、時に敵意のこもった目つき。
 でもあなただけは、いつも濁りの無い瞳で真っすぐに見てくれる。そんなあなたと、どう接すればいいのか分からない。無邪気に接してくるあなた。なのになぜ、こんなに心を躍らせてしまうの。
  ―――あの方のお心は望むこともできない。でもこの子とは、たぶんこれから先
     もっと心を通わせることができるかも。そして。
      このままだと本当に好きになってしまいそう。そして。
      望むなら安らぎも……望むならって、何をこの子になんか。
      私はナウリのことだけ想っていたいの! それで充分なの。

 水剌間で見かけるたびに、思った。
  ―――チャングムあなたのせいよ!

[8]
 どうしよう。どうすればいいの? ああ、清らかな私の想いが。あの方だけをお慕いしていた気持ちが。
 それがどこかへ行ってしまうというの。

 そもそも、私のチャングムに対する気持ちって何?

 もともと丈夫でなかった胃が、ずきずきと痛くなるほど悩んだ。さすがになんとかしなければ……でも誰に相談すればいいのか。
 夜、部屋で鬱々と悩んでいると、尚宮様が戻って来られた。
  ―――……まさか直接尚宮様には聞けないし。
      けれど、このままでは夜も眠れなくなりそう……。
 チェ尚宮様が私の方に目を向けられた。
  ―――相談できるのは叔母様以外にはいないし……。
 私を見て、小さく首を傾げられた。
  ―――かえってご心配をかけてはいけない……。
      遠まわしに聞いてみよう。
「……あの……尚宮様……前に教えていただいたことなんですけれど」

「何かしら?」
「あの、この前おっしゃられたような……女官同士……その………ずっと…一緒に……」
「は? この頃お前は、突然変なことばかり聞くわね。いったいどうしたの?」
 チェ尚宮様は、眉間にしわを寄せて言われた。
「いえ……あの……」
  ―――やっぱりやめておけばよかった。
「まあいいわ。聞きにくいけど興味を持つのはわたくしも一緒だったわ」
 そう言われると、押し入れを開けて、奥から例の類の本を取り出された。
「そういうのを対食(テシク)というのよ」
 またポンと、机の上に置かれる。
「このことでしょ。これ、渡しておくから、知識として一応覚えておきなさい」
「あ! 違うんです。そういうことではなく……」
 大慌てで言った。
「じゃ、どういうこと?」
 わけが分からない、といった顔を向けられる。
「ですから……そちらの……どういうことなのかじゃなくて、気持ち? そう、気持ちの問題なのです……。
 例えば……例えばですよ。その人と話すと楽しくてしかたないとか、何か面白くてもっとよく知りたい……それで……もっと近付きたいとか、一緒にいるとドキドキしたり……なんとなく……ずっと側にいたいなあって……。
 …………こんな気持ちって、対食なんですか?」

 尚宮様は私の顔をちらりと見られた後、押し入れを閉めて座られ、考えておられた。
 本は、私の目の前に置かれたままだ。
 表紙を見るだけであの絵を思い出し、またチャングムの姿が頭をかすめて、思わず顔を伏せた。
  ―――もし……もしそうだと言われたらどうしよう。

 しばらくして言われた。
「それはちょっと違うわね。お前くらいの年頃の女子(おなご)が、そんな気持ちを持つのは普通のことだし、それは成長過程における自然なこと。お前の話を聞く限りでは……憧れとかじゃないの?」
「そう! そんな感じです!」
「まあ、友情が発展した強い感情ね」
 それを聞いて、目の前を覆っていた霧がさっと晴れたような気がした。
「ゆ…友情の発展! では…それでは…対食ではないんですね!」
  ―――私のチャングムへの想いは“友情”ですって。友情。ああ、よかった。
「そうよ。でも、そこからそういうことになる者もいるけど」
「で…でも、私は違うんですよね!」
「だから、さっきからそう言っているではないか」
  ―――私はこれからもナウリだけを想って生きていくの。そしてチャングムとは
     “良いお友達”として堂々と接していけばいいんだわ。
「それにしてもお前、何でそんなに嬉しそうなの?」
「フフフ……」
 笑ってごまかした。


 私の気持ちは元に戻った。再び、宮中であの方のお姿を目で追い、ご様子を思い出しては清く正しく美しい想いに浸った。お見かけすると、さりげなく近付いてご挨拶をした。
 それだけ。でも、それだけでよかった。……心に想うだけで。




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