於多福 の 俳論/俳句 - 客観性〜善心
俳句の現場の最大関心事は、それは誰だって「秀句」を詠みたいでしょう。

秀句を詠むには才能が関わってきますし、私の出番ではないようですけど、


私たちはどのようにしたら「客観性」に充ちた俳句を詠めるのでしょうか。

主観に充ちて生れてきた子供が主観のままで大人になるのではありません。

主観に充ちた子供は親に染まってこそ、親に似た主観を身につけられます。

それは師匠に染まった弟子が師匠に似た発想をする句会方式にも似ますが、

句会方式については既に述べたとおりで、ここでは句会方式に触れません。


もとより、幼児の人格は他人の主観(心)を理解できず、客観性は少ない。

親に染まり・反抗期を経て・自我が育って、やがて一人前の大人へと育つ。

反抗期を経なければ成熟した人格に育てず、未熟な人格に客観性は少ない。

この方程式を無意識にも否定・拒絶する人たちに客観性は認められにくい。

嘘のようでも、人はこの方程式を経て育ち・客観性を身につけるようです。

すなわち、
人間への善心を働かせることに慣れた人は客観性に満ちた句を詠みやすい。

きっと「客観性」は人間への善心を持ち続けるなかで身につくのでしょう。