於多福 の 俳論/俳句 - 俳句の心を考える(1)
俳句の心を考える(2)

咳をしても一人  尾崎放哉
鴉鳴いてわたしも一人  種田山頭火

「咳をしても一人」は、「詩」でしょうか。
落胆・嘆き・苦しみ・憤り・恨みなどの悲鳴に聞こえませんか。
人に「希望」を与えようとするのが詩であると定義するならば、
「咳をしても一人」を詩と呼ぶことは絶対に出来ないでしょう。

「鴉啼いてわたしも一人」は、「詩」でしょうか。
景は、鴉が独りぼっちで鳴いて、作者も独りぼっちで淋しそう。
聞いた人は「独りぼっち」に希望を感じられないかも知れない。
だけどだけど…このフレーズを贈られた鴉はどう思うでしょう。

「あなたも独りぼっちですね。じつは私も独りぼっちです。」
これは独りぼっちの作者から独りぼっちの鴉への呼びかけです。
詩は希望ですから、呼び掛けられた人は希望を得られましょう。
詩は勇気ですから、呼び掛けられた人は勇気を得られましょう。

「咳をしても一人」は、尾崎放哉の作と云われます。
「鴉啼いてわたしも一人」のフレーズは、種田山頭火が詠んだ。
「鴉啼いて」に添書き「放哉居士の作に和して」が有ります。
「咳をしても一人」と嘆く放哉に、山頭火が和して二人になる。

山頭火は尾崎放哉を念頭に置いて「鴉鳴いて」と詠んだのです。
人間を独りぼっちのまま放置する行為は「詩の心」に反します。
山頭火は「詩心」が善の心を喜び・歓迎すると知っていました。
種田山頭火と尾崎放哉は、自由律俳句の荻原井泉水の門下です。

(詩形だけを見た場合)
『咳をしても一人』に、抜き身の剣のような殺気が感じられます。
 鞘も飾りも要らない…それが自由律の究極の形かも知れません。
 結局「日本刀は何のために差すのか」に往きつく問題でしょう。

『鴉鳴いてわたしも一人』には逆に、竹光の安心感さえ覚えます。
 竹光は邪魔になるだけ…と言われると、その通りかも知れない。
 実際、竹光で真剣と試合うには父子鷹並みの腕が必要でしょう。

(蛇足ながら)父子鷹は、NHKの篤姫で活躍中の勝海舟とその父です

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