タグ検索で奥州藤原氏7件見つかりました。
頼朝の奥州征討と泰衡の死
自ら指揮をとる第三隊に分かれて北上した。奥州藤原氏もこれに応じて兵力を三つに分散せざるを得なかった。  そして八月七日、頼朝の中央軍と泰衡の異母兄国衡が平泉の第一防衛戦阿津賀志山で衝突する。頼朝は畠山氏率いる先遣隊に防塁を埋める作業をさせ、通行の障害を除いた。翌八日、畠山氏は国衡軍に攻撃を仕掛けるが、国衡軍はあっけなく退却する。国衡は阿津賀志山北側の天険の大木戸に陣を布き、二万の精鋭で頼朝軍本軍を迎え討つための退却であった。  九日、この日は戦闘が無く、その間、小山氏率いる軍勢が阿津賀志山を迂回し大木戸の
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奥州藤原氏と源頼朝の確執
治を行う幕府の組織を固めた。その一方で、奥州藤原氏に対して都への貢馬、献金は鎌倉を通すように命じる。奥州藤原氏と上皇とのつながりを断つためである。  また、歌人で知られる西行法師を東大寺砂金鍍金料勧進のためと瞑して、平泉に送り込む。西行法師は藤原秀郷流で、いわば奥州藤原氏とは遠い親戚にあたる。彼が単なる勧進のために平泉を訪れたのか、それとも斥候として入ったかは不明である。  一方、頼朝の法に謀らずとも従わなかった義経は追討令を出され追われる身となる。その義経が最後に頼ったのが、青年期を過ごした平泉の奥州藤
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都の政変と奥州藤原氏
 奥州藤原氏の文化が絶頂期にあった頃、都では上皇が天皇の後見として政治を行う「院政」が始まっていた。これに皇位継承問題が生じ、崇徳上皇方に藤原頼長、源為義、平忠正等が、後白河天皇方に藤原通憲、平清盛、源義朝等がそれぞれ荷担して保元の乱が勃発する。結果は後白河天皇方が勝利をおさめた。  この後院政をはじめた後白河上皇と近臣間の対立が激しくなり、藤原信頼が源義朝とともに挙兵するが、平清盛によって討ち滅ぼされてしまう。これが平治の乱で、これ以降平清盛率いる平氏の勢力が強くなり、「此一門にあらざらむ人は皆人非人な
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貢馬と献金と交易
 奥州藤原氏は、陸奥の内政の不干渉を得るため摂関家に接近し、馬や金、その他特産物などを献上した。このため陸奥国司は形だけのものとなり、実際に行政をした陸奥国司はほとんどいなかった。(二代基衡の時争い有り)  陸奥の駿馬は評判が良く、陸奥の上馬は稲六〇〇束に相当した。畿内の馬のおおよそ二倍の価値を持っていた。後の源平の争いの際用いられた名馬の数々は、ほとんど陸奥産のものであった。  砂金の流通は「金売り吉次」なる者がおり、陸奥の砂金を都の公家に運ぶ役割を持っていたらしい。「金売り吉次」は単独の個人を指す者と
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仏教都市平泉
 初代清衡の中尊寺、二代基衡の円隆寺・嘉祥寺・浄土庭園、基衡の妻の観自在王院、三代秀衡の無量光院、他、花舘(三十三間堂)など、金鶏山を取り巻くように、平泉の中核には寺社仏閣が集中している。  都市に寺社仏閣を作ることはすなわち、当時の最先端の技術や職人が運び込まれ、多くの学僧が集まる。これにより、始め前九年・後三年戦死者供養のための仏教が、平泉の文化を急速に開花させる仏教へと発展していく。  中尊寺金色堂には、遠くアフリカの象牙、沖縄の夜光貝、そして、螺澱や象眼などの高度な技術が詰め込まれており、皆金色の
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平泉文化の礎
が、宗任の系統はは松浦党に、則任の系統は奥州藤原氏の家臣として受け継がれている。
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奥州藤原四代の栄華と滅亡
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