奥州藤原氏(7) 蝦夷征討時代(7) 後三年の役(4) 前九年の役(7) 平泉文化財の保存(6)
タグ検索で平泉文化財の保存6件見つかりました。
「東日流外三郡誌」の功罪
昭和五〇年代あたりから、「東日流外三郡誌」ほか「和田家資料」等が「発見」され、東北史が塗り替えられるのではないかと騒がれた。これらの内容は、いわゆる中央から見た歴史ではなく、敗者から見た歴史として注目を浴びた。しかし、これらの「発見」された資料は、鑑定の結果、つい最近作成された悪質な偽書であることが判明し、日本史学会からはすでに相手にされていない。 「発見」された文書等は、和田氏の天井裏から「落ちて」来るものであったり、不法占拠した洞窟や寺社から「発見」したもので、学術的に「新事実」が発表されると、示し合
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一関遊水池計画と柳之御所遺跡
 戦後のカスリン台風、アイオン台風の時の大洪水を始めとして、一関平泉地区は再三洪水には悩まされ続けていた。原因は一関から宮城県境まで約三〇キロメートルにわたる、北上川の川幅が狭くなることによって引き起こされる、北上川の「逆流」である。北上盆地を緩やかに流れていた北上川は、この部分で山地を縫うように流れる。 ここで持ち上がったのが、一関遊水池計画であった。一関・平泉地区に堤防を巡らせ、堤防の内側にある田を犠牲にすることにより堤防の外の居住区を守る計画であった。これに併せ、堤防の上に国道4号線バイパスを通し、
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発掘調査と保存運動
 昭和二四年に文化財保護法が制定され、金色堂の保存運動が高まり翌二五年、朝日新聞社の協力により藤原四代の遺体総合学術調査が行われた。金色堂に安置されている藤原四代のミイラは、その骨格と血液型から都人とほとんど同じで、従来の奥州藤原氏祖藤原経清の妻安倍氏=蝦夷=アイヌ説が揺らぐほどの発見であった。 また、今まで首だけのミイラは三男忠衡のものと言い伝えられていたが、額に空いた穴から四代泰衡の首であると断定された。吾妻鏡に記述されている、泰衡の額に五寸釘を打ったのが実証されたのである。 この記録映画は金色堂脇の
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伊達氏の保護
 豊臣秀吉が天下を統一するとともに、全国の金山の経営にも乗り出した。秀吉の命により中尊寺経蔵にある、金銀字・金字の二部の一切経を持ち出した。後世になってそれは、高野山河内観心寺に納められている。 江戸時代になって平泉は伊達藩の領地となり、政宗を始めとする累代の藩主は、寺領の保護と旧跡の保存に力を注いだ。現在の中尊寺参道にある杉並木はこのときに植えられたものである。また、高館の義経堂も江戸時代に造られる。 寛文五年(一六六五年)、中尊寺、毛越寺、達谷窟西光寺が東叡山寛永寺の末寺となる。その一五年後延宝八年
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幕府の保護
 泰衡の逃散・死亡により中尊寺を中心とする平泉の寺社仏閣は庇護者を失った。これを嘆いた中尊寺別当心蓮法師をはじめ多くの僧が、未だ奥州に陣を布く頼朝に再三愁訴した。心蓮は特に金銀字交書一切経の重要性を強調し、その保護を求めるとともに、寺領の安堵を求めた。取りあえず頼朝は経蔵領の安堵をし、翌日には平泉内の寺社領安堵の下文を出した。 胆沢城鎮守府八幡で戦いの終結を祝う儀式を執り行い、翌日平泉に入り、葛西三郎清重を陸奥国御家人事奉行に任命する。建久六年(一一九五年)、幕府は葛西清重等を奥州惣奉行として平泉地方を管
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平泉文化財の保存
【[[幕府の保護]]】 【[[伊達氏の保護]]】 【[[発掘調査と保存運動]]】 【[[一関遊水池計画と柳之御所遺跡]]】 【[[「東日流外三郡誌」の功罪]]】
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